65話 魂の定義
リビングの窓ガラスは応急処置で塞がれ、割れた食器や散乱した家具も片付けられていた。
ヴィクターが淹れたコーヒーの香りが、少しだけ殺伐とした空気を和らげている。
「アイシャは寝かしつけてきた。……エレマンジャロか。程よく甘みのあるいい香りだ」
「キミ、この豆が好きだからね。さあ、座って」
カイン、コレット、セレーナ、リザ、そしてヴィクター。
全員がテーブルを囲み、沈痛な面持ちで座っていた。
「……まずは、状況の整理だ」
カインが口を開いた。
彼は懐から一冊のノートを取り出し、テーブルに置いた。
地下の実験場で見つけた、大賢者の研究日誌だ。
「第零区画の最深部には、これがあった。そして、その余白にはジークの書き込みがあった」
カインは該当のページを開いた。
『魂を器に縛り付ける最強の楔。それは、本人が積み重ねてきた記憶だ』
その言葉を読み上げると、コレットが息を飲んだ。
「記憶が、楔?」
「ああ。ジークはそう結論づけている。転生者の記憶が消えるのは、世界が異物を排除しようとする圧力に耐えきれず、魂を繋ぎ止めるアンカーが外れていく現象だとな」
カインはコレットの目を見て、続けた。
「楔が外れれば、魂は肉体という器に留まることができない。……ジークは、その先にある『消滅』を危惧していた」
「……少し、お待ちください」
ヴィクターが手を挙げた。彼は眼鏡の位置を直し、学者としての冷静な見解を口にした。
「カイン君の懸念は分かります。ですが、歴史的な記録を見る限り、記憶を失った転生者が『肉体的に死亡した』という例は極めて少ないのです」
ヴィクターは本棚から一冊の資料を取り出した。
「大賢者様も晩年は記憶を失いましたが、その後もこの街で穏やかに暮らし、天寿を全うされました。他の転生者の記録も同様です。……彼らは記憶を失った後、この世界の住人として『適応』し、生きています」
ヴィクターの言葉に、コレットの表情が僅かに明るくなる。
死ぬわけではない。ただ、忘れるだけ。
それなら、カインがそこまで焦る必要はないのではないか?
「……俺もそう思っていた」
カインは低い声で言った。
「だが、ジークのメモにはこうもあった。『時間がねえ』とな。……もし、単にこの世界の住人になるだけなら、あいつがそこまで焦る必要はないはずだ」
カインはノートを指で叩いた。
「大賢者は本当に『大賢者』のまま死んだのか? ……記憶を失った後、そこにいたのは、本当に『元の魂』だったのか?」
場の空気が凍りついた。
肉体は生きている。だが、中身が別人に入れ替わっていたとしたら?
あるいは、魂が霧散し、残ったのはただの「生体反応を示す肉人形」に、新しい真っ白な人格が宿っただけだとしたら?
「……カイン、お前」
セレーナが息を飲んだ。
「魂の漂白……人格の死、か」
「可能性の話だ。だが、ジークがあれほど必死に『魂の定着』を探していた以上、あいつは何らかの確証を持っていたはずだ」
カインはコレットを見た。
「コレットの魔力は規格外だ。魂の結びつきが不安定だからこそ、あれだけの力が漏れ出している。……もし楔が完全に外れれば、普通の転生者よりも深刻な崩壊が起きてもおかしくない」
沈黙が落ちる。
ジークの切迫したメモは、ただの警告ではない。「最悪の事態」を示唆する警鐘。
「……怖いです」
コレットが身を震わせた。
死ぬことよりも、自分が自分でなくなってしまうことへの根源的な恐怖。
「大丈夫だ。俺たちが止める」
カインは力強く断言した。
「方法はあるはずだ。ジークが第零区画を目指した理由。そこに、魂を繋ぎ止めるヒントがある」
絶望的な推論。だが、それが彼らを結束させた。
コレットを守る。その一点において、全員の意志が固まる。
「……なるほどな」
セレーナが腕を組み、不愉快そうに眉をひそめた。
「だとすれば、奴らがコレットを狙う理由も合点がいく。……『賢者の石』だ」
「賢者の石?」
「ああ。オダイ・ジニでバルザックが作ろうとしていた、不老不死の秘薬だ」
バルザックの名が出た瞬間、場の空気がさらに冷えた。
「バルザックは『量』でそれを成そうとして失敗した。だが、今回の敵――ガリレオのアプローチは違う」
セレーナはコレットを指差した。
「奴は『質』を求めている。この世界の理に縛られない、異界の魂。それも、世界を渡るほどの強度を持った高純度の魂を」
コレットの顔から血の気が引く。自分は、ただの人間ではない。彼らにとっては、希少な素材でしかないのだ。
「バルザックは三流だったが、ガリレオは違う。あいつはアカデミーの異端児にして天才だ。……コレットを捕まえれば、本当に『石』を完成させかねん」
「最悪じゃん」
リザが吐き捨てた。
「つまり、あいつらは諦めないってこと? コレットを捕まえるまで、何度でも襲ってくるの?」
「だろうな」
カインは淡々と肯定した。
敵の本拠地は地下深くだ。こちらが地上にいる限り、いつどこから襲撃されるか分からない。守り続けるのはジリ貧だ。
「……なら、やることは一つだ」
カインが立ち上がった。
その瞳には、揺るぎない決意の光が宿っていた。
「こちらから打って出る。ガリレオの本拠地――第零区画を叩き潰す」
「私も行くよ! 魔視もだいぶ戻ってきたし、案内なら任せて!」
リザが拳を突き上げる。
全員の視線が、最後にコレットに集まった。
彼女は狙われる当事者だ。隠れているのが一番安全かもしれない。
だが、コレットは胸元のアズライトの栞を強く握りしめ、顔を上げた。
「……私も、戦います。」
その瞳は、かつてないほど強く輝いていた。
魂が消えるかもしれない恐怖。利用される恐怖。
それらを飲み込み、彼女は前へ進むことを選んだ。
「……いい面構えだ」
カインは口元を緩め、コレットの頭をポンと叩いた。
「決まりだ。明朝、第零区画へ突入する」
目的は二つ。
ガリレオの野望を阻止すること。
そして、ジークが残した「記憶と魂」の研究の全貌を掴み、コレットを救う手立てを見つけること。




