63話 深淵の嘲笑
地下深く。
第零区画の最深部はもうすぐだ。
回廊を抜け、現れたその広い空間は、冷たい静寂に包まれていた。
壁一面を埋め尽くす巨大な魔導サーバー。
そこは、大賢者が遺し、その後何者かによって歪められた実験場だった。
「ここが最深部?」
「いや。最深部はまだ先だ。だが……ここは趣味が悪いな」
カインは吐き捨てるように呟き、足元の瓦礫を蹴った。
道中に配置されていたキメラたちは全て排除した。氷漬けにするか、重力で圧殺するか。
リザの『魔視』はまだ完全ではないが、カインの圧倒的な火力が強引に道を切り開いてきた。
「カイン、あれ」
リザが指差した先。
部屋の中央にあるデスクの上に、一冊のノートが開かれたまま置かれている。
埃を被っているが、そこだけ誰かが触れた形跡がある。
カインは近づき、ノートを覗き込んだ。
大賢者の研究日誌だ。
だが、その余白や行間に、見覚えのある乱雑な文字で書き込みがされている。
『異界の魂は、この世界にとって異物だ。放っておけば世界がそれを排除しようとする』
『魂を器に縛り付ける最強の楔。それは、本人が積み重ねてきた「記憶」だ』
『時間がねぇかもな』
ジークの字だ。
あいつはここで、自分たち転生者が置かれている状況を分析していたのだ。
なぜ記憶が消えるのか。それは病気などではなく、世界が異物を飲み込むためのプロセス。
それに抗うための鍵が「記憶」であると、あいつは結論づけている。
「……あいつは、誰かのためにこれを調べていたのか」
カインは文字を指でなぞった。
ジーク自身は、記憶が消えることを恐れていなかったはずだ。
ならばこれは、まだ見ぬ同胞――コレットのような、記憶の消失に怯える誰かのために残した道標なのかもしれない。
「……ありがたく使わせてもらうぞ、ジーク」
カインがノートを閉じようとした、その時。
「……ん? 何これ」
リザがノートの横にあった魔道具――水晶球のような通信機を指差した。
その瞬間、水晶が赤く明滅し始めた。
不快なノイズと共に、空間にホログラムが投影される。
『ようこそ、第零区画へ』
映し出されたのは、白衣に黒いコートを羽織った男。
片目には機械仕掛けの義眼。
アカデミー評議会のマッドサイエンティスト、ガリレオだ。
「お前が飼い主か」
カインの問いにガリレオは薄気味悪い笑みを浮かべ、義眼をギュルリと回転させた。
『いかにも。カイン……いや、三強のアトス君とお呼びすべきかな?』
「……」
『素晴らしい魔力だ。モニター越しでも肌が粟立つよ。君のその規格外の出力、そして連れの娘が持つ異界の波長……。これらが揃えば、私の「賢者の石」は完成する』
ガリレオは両手を広げ、陶酔したように語る。
『だというのに、君たちはここに来てしまった。……残念だよ。君たちが留守にしている間に、私は「宝物」をいただきに行かせてもらったのに』
カインの全身から、殺気が噴き出した。
宝物。研究所。コレット。
「……何をした」
『簡単なことだ。回収部隊を送った。今頃、紅蓮の魔女もろとも、私の可愛いペットたちの餌食になっている頃だろう』
ガリレオが嗤う。
『急ぎたまえ。運が良ければ、手足の欠けた死体くらいは拝めるかもしれんぞ?』
――プツン。
通信が切れると同時に、カインの周囲で空気が爆ぜた。怒りではない。
もっと純粋で、鋭利な「殺意」の奔流。
「リザ」
「う、うん!」
リザがびくりとして背筋を伸ばす。
カインの顔には、何の表情もなかった。ただ、青灰色の瞳が、絶対零度の冷たさで光っているだけだ。
「捕まってろ。少し急ぐ。……舌を噛まないように気を付けろよ」
「え?」
次の瞬間、世界が裏返った。
カインが地面を蹴ったのではない。風魔法による爆発的な加速。
音速に近い速度で、二人は地下通路を逆走し始めた。
「ふぎゃぁぁぁぁぁぁぁあッ!?」
リザの悲鳴は置き去りにされた。
壁も天井も関係ない。最短距離を突き進む。
立ち塞がるキメラがいれば、速度を落とさずにすれ違いざまに斬り捨てる。
閉ざされた扉があれば、触れもせずに風圧で粉砕する。
(……間に合え)
カインの脳裏に、コレットの笑顔が浮かぶ。
「カインさん」と呼ぶ声。
不器用な自分を信じてくれた、真っ直ぐな瞳。
守る。今度こそ。
たとえこの身が砕けようとも。もう仲間は失わない。




