61話 欠落する過去
地下でカインたちが闇に触れている頃、地上のセレーナの自宅にある研究所では静かな時間が流れていた。
訓練場。
コレットは、セレーナの指導の下、魔力循環のトレーニングを行っていた。
「いいぞ。マナの流れがスムーズになってきた」
セレーナが腕を組み、満足げに頷く。
コレットの指先で、青い光が複雑な図形を描いている。ただ放出するだけではない。
意図した形に留め、維持する。
カインの「抑える」技術と、セレーナの「回す」技術。
その両方を吸収し、コレットの才能は急速に開花していた。
「……ふぅ」
コレットは光を消し、額の汗を拭った。
心地よい疲労感。
以前なら、これだけの魔力を扱えばすぐに息が上がっていたが、今は体の芯が熱くなる程度だ。
「休憩だ。茶でも飲むか」
「はい! ありがとうございます、先生」
二人はベンチに腰掛け、冷たいハーブティーを口にした。
コレットは胸元の栞をそっと撫でた。
それは、彼女が「魔獣を呼ぶ呪われた子」から、「人を守れる魔法士」へと成長しつつある証だった。
「……ねえ、師匠」
「なんだ」
「私、強くなれてますか? カインさんやリザちゃんの役に、立ててますか?」
不安げな問いに、セレーナは鼻で笑った。
「愚問だな。お前がいなきゃ、あの時アトスを救うことはできなかった。……自信を持て。お前はもう、ただの足手まといじゃない」
「……えへへ」
コレットは嬉しそうに笑った。
褒められるのが嬉しい。自分の存在を認めてもらえるのが嬉しい。
こんなに幸せな気持ちになれるなら、辛い過去なんて忘れてしまってもいいのかもしれない。
ふと、そう思った瞬間だった。
ドクン。
心臓が、嫌な音を立てた。視界が白く明滅する。
「……っ?」
目眩かと思った。
だが、違う。体ではない。
頭の中のどこか、深い部分がごっそりと抜け落ちる感覚。
コレットは反射的に、自分の「核」を確認しようとした。
――前世の記憶。
優しかった……誰か。
そうだ、私には家族がいたはず。
父様と、母様と……それから……。
(……あれ?)
思い出せない。
顔も、名前も、もうずっと前に消えてしまった。でも、確かに「いた」はずなのだ。
私を可愛がってくれた誰かが。
私と一緒に笑い合っていた、大切な誰かが。
(兄……? 妹……?)
単語としては出てくる。
けれど、その実感が伴わない。
本当にいたのだろうか?
私が勝手に作り出した妄想だったのではないか?
「家族がいた」という事実さえも、霧の向こうに溶けていく。
「……嘘」
コレットの手から、カップが滑り落ちた。ガシャン、と陶器が砕ける音が響く。
「おい、どうした!?」
コレットはガタガタと震えながら、自分の頭を抱えた。
「消えた……消えちゃった……」
「おい……しっかりしろ!」
「私……家族がいたはずなんです。父様と母様以外にも、大切な人が……。でも、分からないんです。本当にいたのか、どんな人だったのか……存在したことさえ、思い出せない……!」
自分が自分でなくなっていく感覚に陥る恐怖。
大切な思い出が、根こそぎ奪われていく喪失感。
私という人間を形作っていた土台が崩れ、底なしの穴に落ちていくような浮遊感。
「嫌だ……嫌だ嫌だ! 忘れたくない! 私、私は……ッ!」
パニックになり、魔力が暴走しかける。
アズライトの栞が赤く点滅し始めた。
「落ち着け! 呑まれるな!」
セレーナがコレットを強く抱きしめた。
温かい体温。
薬品と、微かな残り香。
それは、今のコレットが知っている「現実」の匂いだった。
「深呼吸しろ。私は誰だ?」
「……セ、レーナ……先生……」
「そうだ。カインは? リザは?」
「……知ってます。忘れてません。大事な、仲間です……」
コレットはセレーナの服を握りしめ、縋るように答えた。
今の記憶はある。
この世界で出会った人たちの顔は、鮮明に浮かぶ。消えたのは、前世だけだ。
「ならいい。大事なものは、ここにある」
セレーナはコレットの背中を、ゆっくりと撫でた。
「過去が消えても、今の自分まで消えるわけじゃない。お前はコレットだ。私の弟子で、カインの連れで、リザの友達だ。……それだけは、絶対に変わらん」
力強い断言。
その言葉が、崩れかけていたコレットの心を、現世へと繋ぎ止める楔となった。
「……はい、先生……」
コレットはセレーナの腕の中で泣いた。
失った過去への追悼と、今ある絆への感謝を込めて。
その時だった。
ズドォォォンッ!!
地響きと共に、研究所の防壁が爆破された音が響いた。
「……なんだというんだ……」
セレーナが顔を上げる。
その瞳はすでに、戦士の色に変わっていた。
明らかに敵意のある攻撃。
このタイミングでの襲撃。
「コレット、立てるか」
「……はい」
コレットは涙を拭い、立ち上がった。
もう、泣いている場合じゃない。
大切な「今」を守るために、戦わなければならない。
「どこの馬鹿か知らんが……私の城で暴れる命知らず共に躾をしてやる」
紅蓮の魔女と、その弟子。
二人は並んで、硝煙の漂う地上へと駆け出した。




