60話 おじさんと猫4
深夜の旧下水道は、死に絶えたかのように静まり返っていた。
地上を流れる整備された水路とは違い、ここは廃棄された汚水と澱んだ空気が支配する世界だ。
カインとリザは、足音を忍ばせて湿った石畳を進んでいく。
「……臭うね」
リザが鼻をつまみ、小声で呟いた。物理的な悪臭だけではない。
彼女の『魔視』には、この奥から漂ってくる異質なマナの濁りが見えているのだろう。
「我慢しろ。これが最短ルートだ」
カインは短く答え、懐中時計を確認した。
ヴィクターの地図によれば、第零区画への入り口はこの先にある。
警備の巡回ルートは把握済みだ。今は空白の時間帯。
やがて、通路の突き当たりに、巨大な円形の金属扉が現れた。
表面には複雑な幾何学模様が刻まれ、幾重もの魔法鍵がかけられている。
壁面には『立入禁止』を示すプレートが、錆びついてぶら下がっていた。
「うわ……厳重だね。これ、開くの?」
リザが扉を見上げる。
そこには、物理的な堅牢さに加え、高密度の拒絶結界が張られていた。
不用意に触れれば、侵入者を消し炭にする迎撃術式が発動する仕組みだ。
「ヴィクターの話じゃ、ジークもここを通ったはずだ」
カインは扉の前に立ち、右手をかざした。
「あいつは剣で斬ったか、あるいは腕力でこじ開けたか……。どちらにせよ、鍵は壊されているはずだが」
カインの指先が、結界の表面をなぞる。
微かな違和感。一度破壊された結界が、何者かの手によって「修復」されている。
それも、つい最近。
「……誰かが直したな。それも、かなり几帳面な性格の奴だ」
「え? ってことは、中に誰かいるの?」
「そこまでは分からんが……『何か』が居る気配は感じる」
カインは目を細めた。
やはり、ただの廃墟ではない。現在進行形で「使われている」施設だ。
カインは魔力を練り上げる。修復された結界の構造を読み取り、その結び目を見つけ出す。
力任せに破壊すれば警報が鳴る。ここはスマートにいく。
「……開け」
カインが指を弾くと、パキン、と硬質な音がして、扉の幾何学模様が光を失った。
『術式解錠』
重厚な金属音が響き、扉がゆっくりと内側へ開いていく。
「行くぞ」
カインが先に立ち、暗闇へと足を踏み入れる。
リザもナイフを抜き、油断なく周囲を警戒しながら続いた。
◇
扉の向こうに広がっていたのは、異様な空間だった。
天井には等間隔に配置された魔導灯が、明滅しながら頼りない光を落としている。
床には太いパイプが這い回り、得体の知れない液体が流れる音が響いている。
古代の遺跡というよりは、巨大な「工場」のようだった。
「……何ここ。気持ち悪い」
リザが呻くように言った。彼女の視界は、極彩色の悪夢に染まっていた。
壁の向こう、床の下、至る所から、悲鳴のようなマナの残滓が聞こえてくる。
自然界には存在しない、人工的にねじ曲げられた魔力の流れ。
「カイン、気をつけて。ここ、普通じゃないよ。マナが……『混ざってる』」
「混ざってる?」
「うん。人と獣と、あと機械みたいな無機質な色が、無理やりミキサーにかけられたみたいに」
リザの言葉に、カインは眉をひそめた。
不快な予感がする。
この感覚は、オダイ・ジニの地下霊廟で感じたものに近い。
だが、もっと冷徹で、機械的な悪意だ。
カツン……。
不意に、奥の通路から硬い音が響いた。カインが足を止め、リザを背に庇う。
「……誰だ」
問いかけに答える声はない。
代わりに、闇の奥から「それ」は現れた。
四足歩行の獣。大きさは狼ほどだが、その体は歪だった。
右半身は金属の装甲で覆われ、左半身は毛の抜けた肉が剥き出しになっている。
背中からは水晶のような管が伸び、紫色の液体が循環していた。
「グルル……」
獣が唸り声を上げる。
その瞳には理性の光はなく、ただ命令に従って動く殺戮機械の冷たさだけがあった。
「……あれって魔獣?」
「違う」
カインは即答した。
「キメラ(合成獣)だ。……それも、魔導工学で無理やり継ぎ接ぎされた、趣味の悪い失敗作だ」
合成獣。
異なる生物を魔法で融合させる禁忌の技術。
だが、目の前のそれは、生物と機械までも融合させている。
大賢者の遺した技術を、最悪の形で悪用した成れの果て。
「ガァァッ!!」
キメラが地面を蹴った。
――速い。
金属の足が床を削り、火花を散らしてカインに迫る。
リザが反応するより速く、カインは左手を振るった。
『風刃』
不可視の刃がキメラを襲う。
だが、キメラの金属装甲が微かに発光し、風の刃を弾いた。対魔法コーティング。
「小賢しいな」
カインは不快げに眉を寄せた。
ただの獣ではない。魔法士を殺すために調整された兵器だ。
キメラが跳躍し、鋭利な爪を振り下ろす。
「カイン!」
リザの悲鳴。
だが、カインは動じない。風が通じないなら、潰すまでだ。
『重圧』
カインが指を下に向けると、キメラの真上の空間が歪んだ。
ドゴォッ!!
見えないハンマーで叩かれたように、キメラが床に叩きつけられる。
金属の骨格が軋み、肉がひしゃげる。
だが、それでもキメラは這いずり、カインに噛み付こうとする。
痛みを感じないのか、あるいは死ぬまで止まらないようにプログラムされているのか。
「哀れなものだな……」
カインは冷徹に告げ、右手に氷の魔力を収束させた。
「眠れ」
放たれた冷気がキメラを包み込む。
一瞬にして、獣は氷の像へと変わった。
活動停止。
完全に沈黙した氷像を見下ろし、カインは深く息を吐いた。
「……リザ、大丈夫か」
「う、うん。……今の、何なの?」
「番犬だ。ここを管理している奴のな」
カインは氷像の奥、暗闇に続く通路を睨みつけた。
ジークがここに来た理由。そして、大賢者が遺した研究。
それらは、カインたちが想像していたよりもずっと深く、どす黒い闇の中に沈んでいるようだ。
「行くぞ。……歓迎はされていないようだが、引き返すつもりはない」
カインが歩き出す。
リザは一度だけ氷漬けのキメラを振り返り、震える体を抱いてその後を追った。




