5話 宿場町 リベ
森を抜け、街道を半日ほど歩いた先に、石造りの防壁が見えてきた。
国境沿いの宿場町、リベ。
物流の中継地点であり、多くの旅人や商人が行き交う雑多な街だ。
「……フードを深めにかぶれ。顔を上げるなよ」
カインの低い指示に、コレットは無言で頷き、外套のフードを目深に被り直した。
胸元の「アズライトの栞」を、服の上からぎゅっと握りしめる。
魔力制御の訓練は続けているが、人混みはまだ危険だ。何が引き金になり、感情が昂るかわからない。そうなれば魔力の制御が乱れ、魔獣のみならず「悪い人間」を引き寄せかねない。
防壁の門には、気だるげな衛兵が二人立っていた。通行税を徴収し、不審者を弾くのが彼らの仕事だ。
見るからに目つきの悪い男と、顔を隠した小柄な娘。どう見ても怪しい組み合わせだが、カインは堂々と歩み寄った。
「止まれ。身分証は」
槍を突き出してきた衛兵に、カインは懐から一枚の銀色のプレートを取り出して見せた。魔術ギルドの発行するランク証だ。ただし、偽名である。
「……ランクBか。連れは?」
「身内の娘だ。流行り病で口がきけん」
カインは平然と嘘をつき、革袋から銀貨を二枚弾いた。コインが空中で弧を描き、衛兵の胸元へ吸い込まれる。
通行税にしては多すぎる額だ。衛兵はニヤリと口角を上げ、大袈裟に道を空けた。
「ご苦労。通りな」
詮索は終わりだ。金で買える安っぽい信用。
門をくぐり抜けた先には、喧騒と熱気が渦巻いていた。
馬車の車輪が石畳を叩く音。商人たちの呼び込み。鉄板で焼かれる肉の脂っこい匂いと、家畜の糞尿の臭いが混ざり合った、人間社会特有の空気。
「……っ」
コレットが僅かに呻き、カインの背中に隠れるように身を寄せた。
静かな森にある村での生活しか知らなかった彼女にとって、この圧倒的な情報の奔流は暴力に近いのだろう。
すれ違う男たちが、ジロジロとコレットを見ている。外套で隠しきれない華奢な肢体や、異質な雰囲気を感じ取っているのだ。
「離れるなよ」
カインは短く告げ、人混みを縫うように歩き出した。その歩調は、森の中よりも意図的に落とされている。
「あ……」
コレットの足が止まった。
視線の先にあるのは、古びた雑貨屋の軒先だ。色とりどりの果物や、安っぽい装飾品が並んでいる。
だが、彼女が見ていたのは商品ではない。店の奥にある鏡に映った、自分自身の姿だった。
薄汚れた服。疲れ切った顔。そして、首から下げた青い結晶。
「……欲しいものでもあるのか」
カインが足を止め、振り返る。コレットはハッとして首を振った。
「い、いいえ。何でもありません」
「そうか。……なら、こっちだ」
カインはコレットの腕を引かず、ただ顎で方向を示した。
連れて行かれたのは、路地裏にある革細工の店だった。店主の爺が、気難しそうに革をなめしている。
「丈夫なブーツをくれ。こいつのサイズだ」
カインがコレットの足を指差した。
彼女が履いているのは、底のすり減った粗末な布靴だ。これでは街道の砂利道で足を痛める。
コレットは驚いてカインを見上げた。
「えっ……カインさん、そんな……」
「必要経費だ。足が潰れたら俺が背負う羽目になる。それは御免だ」
カインは憎まれ口を叩きながら、棚から丈夫そうな革ブーツを選び取った。機能性重視の、武骨なデザインだ。
「履いてみろ」
言われるがままに足を通す。革は硬いが、足首をしっかりと固定してくれる安心感がある。これなら、長く歩いても疲れにくいだろう。
「ぴったりです」
「よし。これを貰う」
カインは代金を支払い、古い靴はその場で捨てさせた。
店を出ると、コレットは新しいブーツの感触を確かめるように、石畳をコツコツと踏みしめた。
「……ありがとうございます。その、後で必ずお返ししますから」
「返す当てがあるのか」
「それは……今はないですけど……」
言葉に詰まるコレットに、カインは溜息交じりに言った。
「借りは増えるものだ。いちいち気にするな」
そう言って歩き出すカインの背中は、やはり大きくて、どこか遠い。
けれど、足元の新しい靴が、彼との繋がりを確かに感じさせてくれた。
◇
宿は、表通りから一本入った場所にある『黒猫亭』を選んだ。
一階が酒場で、二階が客室になっている安宿だ。部屋は二つ取った。隣同士だ。
「休め。食事は部屋に運ばせる」
鍵を渡され、コレットは自室に入った。
木のベッドと小さな机だけの簡素な部屋。だが、屋根と壁があるというだけで、張り詰めていた緊張が糸を切ったように解けていく。
(……私、生きてる)
ベッドに倒れ込み、天井を見上げる。
泥のように重い疲労が、意識を深く沈めていった。
柔らかい光が差し込んでいた。
ふかふかの天蓋付きベッド。最高級の羽毛布団。窓の外には、広大な庭園が広がっている。
そこには、あのアズライトによく似た青い花が一面に咲き乱れ、風に揺れていた。
(ああ……朝だわ)
コレットは身を起こした。
ここは私の部屋。ミオソティス王国の王女の部屋。あの森での出来事は、すべて悪い夢だったのだ。
「おはよう!」
「おはようございます、姉様」
扉が開き、駆け寄ってくる二つの影があった。
活発そうな少し年上の男の子と、おっとりとした女の子。私の兄と妹。
……あれ?
彼らの顔を見ようとするが、なぜか焦点が合わない。まるで白い霧が掛かっているように、目鼻立ちがぼやけている。
「……おはよう」
名前を呼ぼうとして、喉が詰まった。
名前が出てこない。あんなに毎日呼んでいたのに。私の大切な家族なのに。
「どうしたんだい? 顔色が悪いよ」
心配そうに覗き込んでくる、背の高い男性。父様だ。その隣には、優しく微笑む母様もいる。
懐かしい。会いたかった。
二人に抱きつきたくて手を伸ばす。けれど、その顔もまた、のっぺらぼうのように白く塗りつぶされていた。
(――誰?)
恐怖が背筋を駆け上がる。
父様だという知識はある。母様だという感情もある。
なのに、その「顔」と「名前」という情報だけが、綺麗に削り取られている。
「さあ、朝食に行こう。――」
父様が私の名前を呼んだ。けれど、その音はノイズのように掠れて聞こえない。
(私の名前……何だっけ?)
コレット。いいえ、それは今の名前。あっちの世界での名前。
私の本当の名前は? この国で、父様たちに愛されて呼ばれていた私の名前は?
思い出せない。
自分が誰なのか分からない。
ここは私の部屋なのに。私の家族なのに。
まるで他人の人生を、劇場の客席から眺めているような、絶対的な断絶。
「待って……行かないで……!」
叫ぼうとしても声が出ない。
霧が濃くなる。家族の姿が、庭園の青い花畑に溶けるように遠ざかっていく。
置いていかれる。私という存在が、世界から消えていく――。
「……ぁ、あぁ……ッ!!」
コレットは弾かれたように目を覚ました。
叫んだはずの声は掠れ、代わりに荒い息だけが喉を灼く。全身が嫌な汗で濡れていた。
「……夢……」
心臓が早鐘を打っている。恐怖で震えが止まらない。
その時、自分の左手が、誰かの大きく温かい手に包まれていることに気がついた。
「……っ!?」
驚いて顔を向ける。
ベッドの脇に、丸椅子を引き寄せて座っている男がいた。
不機嫌そうに眉を寄せた、カインだった。
「カ、カイン、さん……?」
「……やっと起きたか」
カインは溜息を吐き、握っていた手を離した。
その手から伝わっていた温もりが消え、コレットは得も言われぬ不安に襲われた。
「ど、どうしてここに……」
「感情を制御しろと言っただろう。寝ている間に魔力が暴れていたぞ。おかげで起こされた」
カインは顎で部屋の隅をしゃくった。
そこには、薄っすらと青白い燐光が漂っていた。
コレットの魔力が無意識に放出され、室内のマナと反応して発光現象を起こしていたのだ。
もしカインが来て抑え込まなければ、宿ごと魔獣に襲われていたかもしれない。
「す、すみません……。私、怖い夢を見て……」
「……」
カインは何も言わず、サイドテーブルに置いてあったグラスに水を注ぎ、コレットに手渡す。
コレットはそれを受け取り、震える手で一口飲んだ。冷たい水が、高ぶった神経を少しだけ鎮めてくれる。
「落ち着いたか」
「は、はい……。あの、ずっと手を、握ってくれていたんですか……?」
「魔力の出口を塞いでいただけだ。物理的な接触が一番手っ取り早い」
カインはそっけなく答え、立ち上がった。
だが、その声音にはいつもの刺々しさはなく、どこか気まずげな響きがあった。
彼は部屋の出口へと向かう。
「まだ夜明け前だ。二度寝するなら、次は静かに寝ろ」
「……はい。ありがとうございます、カインさん」
扉が閉まる。
部屋に静寂が戻った。
だが、先ほどまでの絶対的な孤独感は、もうない。左手には、まだカインの手の熱が微かに残っていた。
コレットは枕元の「アズライトの栞」を手に取り、胸に抱きしめた。
夢の中で見た青い花。そして、今ここにある青い結晶。
過去は消えていくかもしれない。けれど、今は確かにここに誰かがいてくれる。
(忘れたくない……。忘れたく、ないよ……)
それでも溢れそうになる涙を堪え、コレットは栞を握りしめた。
隣の部屋から聞こえるカインの足音が、この世界で唯一の、確かな道標だった。
◇
夜明け前の、薄暗い路地裏。
宿屋『黒猫亭』の二階を見上げる、一つの影があった。
橙色の髪をツインテールに結った、小柄な少女だ。
彼女は猫のように軽やかな身のこなしで屋根の庇に飛び乗ると、コレットたちが泊まる部屋の窓をじっと見つめた。
「……な〜んか、今の魔力妙な感じ」
少女は飴玉を転がすように呟いた。
その声は鈴のように可愛らしいが、細められた瞳の奥には、能天気な声音とは裏腹の、鋭い観察者の光が宿っていた。




