56話 満ちる器、零れる砂
地下の工房は、青白い光に満たされていた。
中央に設置された巨大な水槽――高濃度マナプール。
その中で、カインは目を閉じて浮遊していた。
粘度の高い液体が全身を包み込み、枯渇していた魔力回路に直接マナを送り込んでくる。
不快ではないが、退屈な時間だ。
「……調子はどうですか?」
ヴィクターが本を片手に降りてきた。カインは水面から顔だけ出し、ふぅと息を吐いた。
「悪くない。あと数日もあれば満タンだ」
「それは良かった。妻も張り切っていますよ。君が全快したら、実験に付き合わせると意気込んでいましたから」
「……逃げる準備をしておくか」
カインは苦笑した。
この数日、ヴィクターとはよく話した。
彼は魔法士ではないが、知識の幅は広く、カインの知らない古代の歴史や、異世界の伝承にも詳しかった。
何より、カインを「伝説の英雄」としてではなく、妻の友人として対等に扱ってくれるのが心地よかった。
「カイン君。キミは、力が戻ったらどうするつもりなんです?」
「……さあな」
カインは天井の配管を見上げた。
「コレットの制御が安定するまでは付き合う。その後は……また、ふらふらするさ」
「そうですか。……ですが、君の帰る場所は、もう……一つ増えたと思っていいのでは?」
ヴィクターは穏やかに微笑み、本を置いて立ち去った。
カインは再び液面下へと沈んだ。
帰る場所。そんなもの、とっくに捨てたはずだった。
だが、胸の奥に灯った小さな温かみは、否定しようがなかった。
◇
一方、地上のサンルームでは、コレットの修行が続いていた。
「イメージしろ。水を汲むんじゃない。水路を引くんだ」
セレーナの指導は厳しく、そして的確だった。コレットの目の前で、水球が形を変え、複雑な幾何学模様を描いて回転している。
「マナは意志に従う。だが、曖昧な願いでは霧散する。……そこ! 結合が甘い!」
パシャッ。
コレットの集中が途切れ、水球が弾けて床を濡らした。
「すみません……!」
「謝るな。次だ」
セレーナはタオルを投げ渡し、自身も冷たいハーブティーを口にした。
「……随分と上達したな。出力のムラがなくなってきた」
「本当ですか? ありがとうございます!」
コレットは顔を輝かせた。
この数日、彼女は魔法の基礎理論を叩き込まれていた。
カインの「感覚」と、セレーナの「理論」。
二つの視点を得たことで、彼女の異質な魔力は、破壊の奔流から創造の力へと昇華されつつあった。
「今日はここまでだ。そろそろリザが街から戻ってくる頃だぞ。迎えに行ってやれ」
「はい!」
コレットは元気に返事をし、部屋を出た。
廊下を歩きながら、胸元の「アズライトの栞」を握りしめる。
青く、澄んだ輝き。
私が頑張れば、この光は濁らない。カインにも、セレーナにも、迷惑をかけずに済む。
嬉しい。楽しい。
こんなに充実した毎日は初めてだ。
「……あれ?」
ふと、コレットは足を止めた。
窓の外、夕焼けに染まる街並みを見下ろして、不意に既視感を覚えた。
王都の夕暮れ。前世、城の窓から見ていた景色と重なる。
あの時、隣には誰がいたっけ。
(……お兄様だ)
優しかった兄。そうだ、お兄様の顔を思い出そうとして……。
「……っ」
コレットの指先が震えた。思い出せない。
優しかった声、頭を撫でてくれた掌の温もり。それらは鮮明に覚えているのに。
肝心の「顔」が、白い霧に包まれたようにぼやけている。
名前も、思い出せない。
「ギル……」何とかだったような気がするけれど、確信が持てない。
(嘘……どうして?)
恐怖がせり上がってくる。
あんなに大好きだったのに。あんなに大切だったのに。
私の中から、兄という存在が削り取られていく。
「嫌だ……忘れたくない……!」
コレットはその場にうずくまり、頭を抱えた。
砂の城が崩れるように。
器に入れた水が、底の穴から知らぬ間に零れ落ちていくように。
前世の私が、消えていく。
「……コレット?」
廊下の向こうから、リザの声がした。
買い物袋を抱えたリザが、不思議そうにこちらを見ている。
「どうしたの? そんなとこで座り込んで」
その声を聞いた瞬間、コレットの心臓がドクンと跳ねた。
顔を上げる。そこには、リザがいた。
橙色の髪、大きな猫目、少し心配そうな表情。
その名前も、出会った場所も、昨日交わした会話も、全部鮮明に覚えている。
霧なんてかかっていない。彼女との思い出は、まるで宝石のようにキラキラと輝いている。
「……リザ、ちゃん」
「うん? 気分悪い?」
リザが駆け寄ってきて、額に手を当ててくれる。温かい。この温もりは、忘れていない。
(……そっか)
コレットは気付いた。
消えていくのは、遠い昔の幻だけ。
今、ここで生きている「私」の記憶は、一つも欠けていない。
カインと出会った森。
リベでの戦い。
セレーナとの特訓。
それらは全て、私の中に根付いている。
「……ううん、なんでもない!」
コレットは立ち上がり、涙を拭って笑顔を作った。寂しいけれど、怖くはない。
過去が消えても、今はここにあるから。
「ちょっと、躓いちゃって。……おかえり、リザちゃん」
「ただいま。ほら、今日の夕飯の材料! ヴィクターさんが好きな魚、安く買えたよ」
リザは無邪気に笑っている。
その笑顔を、コレットはしっかりと目に焼き付けた。
忘れないように。
明日も、明後日も、この大切な日々を積み重ねていくために。




