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【完結】咎人とアズライト〜国を捨てた魔法士は、記憶を失う転生者と旅をする〜  作者: 文月ナオ
第四章 魂の追求者

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56話 満ちる器、零れる砂

 地下の工房は、青白い光に満たされていた。

 中央に設置された巨大な水槽――高濃度マナプール。

 その中で、カインは目を閉じて浮遊していた。

 粘度の高い液体が全身を包み込み、枯渇していた魔力回路に直接マナを送り込んでくる。

 不快ではないが、退屈な時間だ。


「……調子はどうですか?」


 ヴィクターが本を片手に降りてきた。カインは水面から顔だけ出し、ふぅと息を吐いた。


「悪くない。あと数日もあれば満タンだ」

「それは良かった。妻も張り切っていますよ。君が全快したら、実験に付き合わせると意気込んでいましたから」

「……逃げる準備をしておくか」


 カインは苦笑した。

 この数日、ヴィクターとはよく話した。

 彼は魔法士ではないが、知識の幅は広く、カインの知らない古代の歴史や、異世界の伝承にも詳しかった。

 何より、カインを「伝説の英雄」としてではなく、妻の友人として対等に扱ってくれるのが心地よかった。


「カイン君。キミは、力が戻ったらどうするつもりなんです?」

「……さあな」


 カインは天井の配管を見上げた。


「コレットの制御が安定するまでは付き合う。その後は……また、ふらふらするさ」

「そうですか。……ですが、君の帰る場所は、もう……一つ増えたと思っていいのでは?」


 ヴィクターは穏やかに微笑み、本を置いて立ち去った。

 カインは再び液面下へと沈んだ。

 帰る場所。そんなもの、とっくに捨てたはずだった。

 だが、胸の奥に灯った小さな温かみは、否定しようがなかった。


          ◇


 一方、地上のサンルームでは、コレットの修行が続いていた。


「イメージしろ。水を汲むんじゃない。水路を引くんだ」


 セレーナの指導は厳しく、そして的確だった。コレットの目の前で、水球が形を変え、複雑な幾何学模様を描いて回転している。


「マナは意志に従う。だが、曖昧な願いでは霧散する。……そこ! 結合が甘い!」


 パシャッ。


 コレットの集中が途切れ、水球が弾けて床を濡らした。


「すみません……!」

「謝るな。次だ」


 セレーナはタオルを投げ渡し、自身も冷たいハーブティーを口にした。


「……随分と上達したな。出力のムラがなくなってきた」

「本当ですか? ありがとうございます!」


 コレットは顔を輝かせた。

 この数日、彼女は魔法の基礎理論を叩き込まれていた。

 カインの「感覚」と、セレーナの「理論」。

 二つの視点を得たことで、彼女の異質な魔力は、破壊の奔流から創造の力へと昇華されつつあった。


「今日はここまでだ。そろそろリザが街から戻ってくる頃だぞ。迎えに行ってやれ」

「はい!」


 コレットは元気に返事をし、部屋を出た。

 廊下を歩きながら、胸元の「アズライトの栞」を握りしめる。

 青く、澄んだ輝き。

 私が頑張れば、この光は濁らない。カインにも、セレーナにも、迷惑をかけずに済む。

 嬉しい。楽しい。

 こんなに充実した毎日は初めてだ。


「……あれ?」


 ふと、コレットは足を止めた。

 窓の外、夕焼けに染まる街並みを見下ろして、不意に既視感を覚えた。

 王都の夕暮れ。前世、城の窓から見ていた景色と重なる。

 あの時、隣には誰がいたっけ。


(……お兄様だ)


 優しかった兄。そうだ、お兄様の顔を思い出そうとして……。


「……っ」


 コレットの指先が震えた。思い出せない。

 優しかった声、頭を撫でてくれた掌の温もり。それらは鮮明に覚えているのに。

 肝心の「顔」が、白い霧に包まれたようにぼやけている。

 名前も、思い出せない。

「ギル……」何とかだったような気がするけれど、確信が持てない。


(嘘……どうして?)


 恐怖がせり上がってくる。

 あんなに大好きだったのに。あんなに大切だったのに。

 私の中から、兄という存在が削り取られていく。


「嫌だ……忘れたくない……!」


 コレットはその場にうずくまり、頭を抱えた。

 砂の城が崩れるように。

 器に入れた水が、底の穴から知らぬ間に零れ落ちていくように。

 前世の私が、消えていく。


「……コレット?」


 廊下の向こうから、リザの声がした。

 買い物袋を抱えたリザが、不思議そうにこちらを見ている。


「どうしたの? そんなとこで座り込んで」


 その声を聞いた瞬間、コレットの心臓がドクンと跳ねた。

 顔を上げる。そこには、リザがいた。

 橙色の髪、大きな猫目、少し心配そうな表情。

 その名前も、出会った場所も、昨日交わした会話も、全部鮮明に覚えている。

 霧なんてかかっていない。彼女との思い出は、まるで宝石のようにキラキラと輝いている。


「……リザ、ちゃん」

「うん? 気分悪い?」


 リザが駆け寄ってきて、額に手を当ててくれる。温かい。この温もりは、忘れていない。


(……そっか)


 コレットは気付いた。

 消えていくのは、遠い昔の幻だけ。

 今、ここで生きている「私」の記憶は、一つも欠けていない。

 カインと出会った森。

 リベでの戦い。

 セレーナとの特訓。

 それらは全て、私の中に根付いている。


「……ううん、なんでもない!」


 コレットは立ち上がり、涙を拭って笑顔を作った。寂しいけれど、怖くはない。

 過去が消えても、今はここにあるから。


「ちょっと、躓いちゃって。……おかえり、リザちゃん」

「ただいま。ほら、今日の夕飯の材料! ヴィクターさんが好きな魚、安く買えたよ」


 リザは無邪気に笑っている。

 その笑顔を、コレットはしっかりと目に焼き付けた。

 忘れないように。

 明日も、明後日も、この大切な日々を積み重ねていくために。

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