55話 魔女の食卓
「ただいま。……おや、随分と賑やかだね」
夜になり、セレーナの夫――ヴィクターが帰宅した。銀縁眼鏡をかけた、穏やかそうな壮年の男性だ。
アカデミーのローブではなく、仕立ての良いジャケットを着こなしている。
その雰囲気は、魔法士というよりは老舗書店の店主のようだ。
「お帰り、ヴィクター」
セレーナがアイシャを抱いたまま出迎える。
ヴィクターは妻の頬に軽くキスをし、娘の頭を撫でてから、カインたちに向き直った。
「初めまして。妻から連絡は受けていますよ。……君がカイン君ですね?」
「……ああ。世話になる」
カインは立ち上がり、握手に応じた。
ヴィクターの手は、剣ダコ一つない学者の手だ。
だが、その握手には芯の通った力強さがあった。
そして何より、カインの顔を見ても、その奥にある「アトス」の影に怯える様子が微塵もない。
「噂は聞いていますよ。『紅蓮の魔女』の戦友にして、最強の騎士。いや、魔法士……と言った方が適切かな? とにかく……会えて光栄です」
「……買いかぶりだ」
カインが苦笑すると、ヴィクターは人の良さそうな笑顔を深めた。
「妻の友人は、私の友人です。どうぞ、我が家だと思ってくつろいでください」
その夜の食卓は、カインたちの旅路の中で最も豪華で、賑やかなものとなった。
テーブルには、ヴィクターが買ってきた高級ワインと、セレーナの使い魔たちが作った豪勢な料理が並んでいる。
「わぁ……! これ、全部食べていいんですか?」
コレットが目を輝かせる。
ローストチキン、魚介のスープ、彩り豊かなサラダ。どれも絶品だ。
「遠慮するな。今日は祝いだ」
セレーナがワインを開けながら言った。
「祝い?」
「ああ。無事な再会と、新しい門出のな」
セレーナはカインのグラスに波々と注いだ。
「飲め。魔力回復には栄養と休息、そして何より『楽しみ』が必要だ」
「……頂きます」
カインがボソリと呟く。
カインはグラスを掲げた。乾杯の音が響く。
リザは子供用の葡萄ジュースを飲みながら、アイシャと競うようにチキンを頬張っている。
「おいしい! ねえアイシャちゃん、これセレーナ様が作ったの?」
「ううん、使い魔さんが作ったんだよ。ママは料理ヘタだから!」
「こら、アイシャ。余計なことを言うな」
セレーナが娘の口を塞ぐ。
ヴィクターが声を上げて笑い、コレットもつられて吹き出す。
平和だ。
泥と血にまみれた戦場が嘘のような、温かい団欒。
「……ヴィクターさんは、先生……じゃなくて、セレーナさんとどこで知り合ったんですか?」
食後、お茶を飲みながらコレットが尋ねた。
誰もが気になる疑問だ。
最強の魔女と、穏やかな学者。接点が見えない。
「図書館ですよ」
ヴィクターは懐かしそうに目を細めた。
「私が古代文字の解読に行き詰まっていた時、彼女が通りかかって……『貸せ、邪魔だ』と言って、一瞬で翻訳してくれたんです」
「……強引だな……」
カインが呆れると、セレーナはそっぽを向いた。
「間違った解釈でウンウン唸ってるのが目障りだったんだ」
「ふふ。その強引さに、私は惹かれたんです。……彼女は、誰よりも知識に対して誠実でしたから」
ヴィクターはセレーナの手をそっと握った。
セレーナは「よせ」と言いつつも、振り払おうとはしない。
その姿を見て、カインは再び胸の奥が温かくなるのを感じた。
セレーナがこうして誰かに愛され、愛する場所を見つけている。
それは、カインにとってとても大きな救いだった。
「……カイン君」
ヴィクターが、眼鏡の奥から真剣な眼差しを向けた。
「明日から、君の治療を始めます。地下のマナプールを使えば、一週間ほどで全快するでしょう」
ヴィクターの視線が、カインの胸元――見えない何かが、彼の力を抑え込んでいる場所へと注がれる。
学術都市の教授である彼には、カインの魔力が単に枯渇しているだけでなく、何らかの歪な状態で均衡を保っていることが感じ取れるのだろう。
「……君のその体、随分と無理をさせているようだ」
「自業自得だ」
「かもしれませんね。ですが、ここでは肩の荷を下ろしてください。……君がまた、大切なものを守れるようになるまで」
ヴィクターは穏やかに、しかし力強く言った。
深入りはしない。
だが、全てを察した上での配慮。
「……感謝する」
カインは小さく頷き、残った酒を飲み干した。
ここには、敵はいない。
あるのはただ、温かい時間だけ。
「……ごちそうさまでした」
カインの呟きは、誰にも聞こえないほど小さかったが、セレーナだけはグラス越しに満足げに微笑んでいた。




