53話 支え
「……これが、あいつの、アトスの過去だ」
セレーナの語りが終わると、甲板には重苦しい沈黙が降りた。
波が船体を叩く音だけが、絶え間なく響いている。夜空には満天の星。
十五年前のあの日と同じ、無慈悲なほど美しい輝き。
「……そんなの……」
リザが、ぽつりと呟いた。
膝を抱え、顔を埋めている。
その声は湿っていた。
「誰も悪くないじゃん。王様が狂ってただけじゃん。なんで……なんでカインが、一人で全部背負わなきゃいけないのさ」
リザは顔を上げ、涙でぐしゃぐしゃになった顔でセレーナを睨んだ。
「あんただってそうだよ! なんでそんな平気な顔してんのさ! 辛かったんでしょ!? 苦しかったんでしょ!?」
「……ああ。辛かったさ」
セレーナは静かに目を伏せた。
「だが、私が泣けば、アトスはもっと自分を責める。……あいつは、私たちが背負うべき罪まで、全部自分で抱え込んで『咎人』になったんだ。私がメソメソしていたら、あいつの覚悟が無駄になる。私は……もう、そういう感情は通り越したんだよ」
セレーナの瞳には、乾いた涙の痕があった。
十五年間、彼女もまた、地獄のような後悔の中を生き抜いてきたのだ。
「コレット。お前はどうだ?」
セレーナが問う。
コレットは、胸元のアズライトの栞を両手で包み込んでいた。
青い結晶。
カインがくれた、記憶の道標。
その奥底に、彼がどれほどの悲しみと、祈りを込めていたのか。
今なら痛いほど分かる。
「……怖かったです」
コレットは正直に言った。
「カインさんが、時々遠くを見て、私の知らない誰かを想っている気がして……それが少し、寂しくて、怖かった」
自分に向けられる優しさの奥に、かつての主君への贖罪があるのではないか。
自分は彼女の代わりなのではないか。
知ってしまった今、そんな不安がなかったと言えば嘘になる。
「でも……」
コレットは顔を上げた。
その琥珀色の瞳に、迷いはなかった。
「話を聞いて、やっと分かりました。カインさんの優しさが、どこから来ているのか。……あの人は、失う痛さを知っているから、誰よりも優しくなれるんですね」
過去の亡霊ではない。
彼は、過去の痛みを糧にして、今、目の前の自分たちを守ってくれている。
フレデリカ王女が遺した『感謝』という言葉を、彼は不器用に、けれど誠実に体現しようとしているのだ。
「私にとっては、カインさんはカインさんです。アトスという名前がどれほど重くても……たった一食のスープのために、ここまで命を懸けて守ってくれたのは、カインさんですから」
コレットの言葉に、セレーナは目を見開き、そしてふっと表情を緩めた。
張り詰めていた糸が切れたような、穏やかな笑み。
「……そうか。なら、いい」
セレーナは夜空を見上げた。
「お前たちが……あいつと出会ってくれて本当に良かった」
過去を知る者は、自分一人でいい。
新しい仲間たちは、新しい名前で彼を呼べばいい。それが、過去と決別し、未来へ進むための儀式なのだ。
「……でも、許さないよ」
リザが鼻を啜りながら立ち上がった。
「あんな悲しい顔して、一人で格好つけて。……これからは、私たちが無理やり笑わせてやるんだから」
「ふふ、そうだね。美味しいもの、いっぱい食べさせなきゃ」
コレットも立ち上がり、涙を拭った。
悲しみはある。
けれど、それ以上に「支えたい」という想いが強くなった。
最強の騎士が守れなかったものを、今度こそ守り抜くために。
「頼もしいな。……任せたぞ、チビ共」
セレーナは二人を見比べ、満足げに頷いた。
船旅はまだ続く。
海を越えた先、学術都市アレクサンドラ。
そこで待つ新たな知識と出会いが、傷ついた英雄たちを癒やし、再び歩き出す力をくれるはずだ。
「そろそろ寝ろ。明日は風が強くなる」
セレーナが促すと、二人は素直に船室へと戻っていった。
残されたセレーナは、もう一度だけ夜空を見上げ、そして誰もいない海に向かって呟いた。
「……聞こえているか、ジーク」
返事はない。
ただ、波音だけが答える。
「あいつは大丈夫そうだよ。良い奴らが支えてくれてる」
セレーナはグラスに残ったワインを海に注いだ。行方知れずの友への、静かな献杯。
夜風が、彼女の赤い髪を優しく撫でていった。
そしてセレーナは、腕に巻いている純白の髪紐を微笑みながら眺めた。
「フレデリカ……今日も私は、元気だよ」
◇
船室のベッドで、カインは静かに目を開けた。眠ってなどいなかった。
甲板での会話は、風に乗って全て聞こえていた。
(……守ってるつもりだったが、守られてたのは俺か)
カインは天井を見つめ、小さく息を吐いた。
過去は消えない。罪も消えない。
だが、扉の向こうから聞こえる少女たちの寝息が、今の自分を繋ぎ止めてくれている。
「……カイン、か」
その名を、口の中で転がしてみる。
悪くない響きだ。アトスは死んだ。
フレデリカと共に、あの城で。
今ここにいるのは、不器用で、どうしようもないほど生に執着している、ただの男。
カインは目を閉じた。
瞼の裏に浮かぶのは、燃え落ちる城ではなく、明日の朝、甲板で見るであろう青い海と、二人の少女たちの笑顔だった。
カインは自然と、悪夢を見る回数が減っていた。
なんてことのない、ありふれた思い出に上書きされて。




