43話 金色の陽光5
城のテラスから、沈みゆく夕日を見つめていたフレデリカは、ふと昔のことを思い出していた。
国がまだ平和で、父が優しく、アトスの瞳に今のような暗い影が宿る前のこと。
あれは、彼女がまだ十二歳の頃だった。
満月の夜だった。
幼いフレデリカは、召使いの目を盗み、城の抜け穴を通って外へと飛び出した。
目的があったわけではない。ただ、高い城壁の向こうに広がる「世界」を見てみたかった。
毎日勉強と礼儀作法に縛られる日々に疲れ、ほんの少しの冒険がしたかったのだ。
粗末なフード付きのローブを羽織り、顔を隠して裏門の隙間をすり抜ける。
その瞬間、フードが僅かにずれ、長い金髪が零れ落ちた。
夜闇の中で、そこだけが自ら発光しているかのように、月明かりを浴びて鮮烈に煌めく。
それを目撃した者がいた。
新米騎士だった頃のアトスだ。
非番で中庭を歩いていた彼は、闇夜に走る一条の「陽光」ごとき輝きに目を細めた。
(……あれは)
街へ出たフレデリカは、王都の賑わいに目を輝かせていた。
色とりどりのランタン。屋台から漂う香ばしい匂い。笑い合う人々。
城の窓から見下ろすだけだった景色が、今は手の届く場所にある。
けれど、彼女はその光の輪の中に入っていけなかった。
「いらっしゃい! 焼きたてのモゴラの串焼きだよ!」
「きれいな花飾りはどうだい?」
商人の呼び声。客たちの談笑。
みんな、誰かと一緒で、楽しそうだ。
その中で、ポツンと一人。誰にも気付かれず、誰とも言葉を交わさない自分。
こんなに大勢の人がいるのに、世界から切り離されたような疎外感が、冷たく胸に染み込んでくる。
それを、アトスは少し離れた物陰からじっと見守っていた。
連れ戻すのは簡単だ。
だが、彼はそうしなかった。一国の姫が、護衛もつけずに夜の街で何をするのか。警戒心半分、好奇心半分で観察していたのだ。
だが、そこに見えたのは「王女の視察」などという大層なものではなかった。
美味しそうなパイの屋台の前で立ち止まった。
しかし財布を持っていないことに気づいてしょんぼりと肩を落とす少女。
楽しげな家族連れを目で追い、自分の居場所のなさに立ち尽くす、小さな背中。
(……なんだ)
アトスは嘆息した。
そこにいるのは、高貴な王女ではない。ただの、寂しがり屋の迷子だ。
「……帰ろっかな」
フレデリカが小さく呟くのが聞こえた。
冒険は終わりだ。ここには私の居場所はない。
空腹と寒さと、惨めさを抱えて、城へ戻ろうと踵を返した時だった。
「ホットミルクとパイを一つ」
隣から、低い声がした。
見上げると、背の高い男が屋台の主人に銅貨を渡していた。黒髪の、目つきの鋭い青年。
身につけているのは、見覚えのある白い制服――王室近衛騎士の鎧だ。
(……っ!?)
バレた。
フレデリカは凍りついた。
連れ戻される。きっと怒られる。父様に言いつけられて、もう二度と外には出してもらえないだろう。
身を硬くして俯くフレデリカに、アトスは手を差し出した。
「行きましょう、姫」
短く告げられ、手を取られる。
フレデリカは観念して、トボトボと彼について行った。
だが、アトスが向かったのは城ではなかった。大通りから少し外れた、静かな公園のベンチだった。
「……座ってください」
「え?」
「いいから」
アトスはフレデリカを座らせると、自分も隣に腰掛け、湯気の立つホットミルクとパイを押し付けた。
「飲んでください。温まります」
フレデリカは呆気に取られながらもカップを受け取った。
掌から伝わる温もりが、冷え切った指先を解かしていく。
「……私を、連れ戻しに来たんじゃないんですか?」
恐る恐る尋ねると、アトスは呆れたように鼻を鳴らした。
「俺が? まさか。……城を出る時、たまたまあなたが抜け出すのが見えたので、興味本位で後をつけていただけです」
「えっ……最初から見てたのですか?」
「ええ。随分と無防備に歩き回るものだと、ハラハラしましたよ」
アトスは苦笑した。咎める色はない。ただの世間話のような口調。
「では、何故……」
「誰でも腹は減ります。喉も乾くし、寒さも感じる」
アトスは夜空を見上げた。
「俺には、今のあなたが『高貴な王女様』ではなく、ただ寒さに震える一人の少女にしか見えなかった。……それだけじゃ、駄目ですか?」
フレデリカは言葉を失った。
城では皆、彼女を「王女」として扱う。敬い、傅き、決して「一人の人間」としては見てくれない。
けれどこの男は、薄汚れたローブを着て震える自分を、ただの少女として扱い、温かいミルクをくれた。
一口飲む。
甘くて、温かくて、涙が出そうなほど美味しい。
それは、彼女の人生で最高のご馳走だった。
「……おいしい」
「普通のホットミルクですよ?」
「……ううん……特別です……」
二人は並んで、満月を眺めた。沈黙が心地いい。
夜風が吹き、フレデリカのフードが外れた。
長く美しい金髪が、さらりと風になびく。
アトスは、無意識にその髪を目で追っていた。月光を浴びて煌めく黄金。
暗い夜の中で、そこだけが希望のように輝いている。
「……月の明かりに照らされた、陽の光みたいだ」
ぽつりと、アトスが漏らした。
詩的な言葉など似合わない、無骨な騎士の口から出た、飾らない本音。
「え……?」
フレデリカが顔を上げると、アトスはハッとして視線を逸らした。
「い、いえ。なんでもありません。……そろそろ帰りましょう。バレたらもう抜け出せなくなりますよ」
アトスは立ち上がり、手を差し出した。
その耳が、ほんの少し赤くなっているのを、フレデリカは見逃さなかった。
胸がトクンと跳ねる。
顔が熱い。身体が熱を帯びる。
これは……ミルクのせいじゃない。
「……うん」
フレデリカはその手を取った。大きくて、節くれ立っていて、温かい手。
(……おっきい手……)
幼い王女の心に、小さな恋の灯火が点った瞬間だった。
◇
「……アトス」
回想から戻り、現在のフレデリカは呟いた。
あの日のホットミルクの味は、今でも鮮明に覚えている。
あの日から、彼は強くなった。誰よりも強く、誰よりも優しく。
けれど、その背中は日に日に遠くなり、今は血と鉄の匂いに塗れている。
「……ごめんなさい」
フレデリカは胸元で手を組んだ。
寒さと孤独に震える少女に温かいミルクを差し出してくれるような、優しいあなたを……
こんな修羅の道に引きずり込んでしまって。
私が無力なばかりに、貴方に剣を振るわせ、心を殺させてしまっている。
それでも、貴方は守ろうとしてくれる。
この国を。私の命を。
「……どうか、ご無事で」
王女の祈りは、夜の空へ融けて消えていった。




