42話 金色の陽光4
かつて、ヴァニタスは美しい国だった。
大陸の中央に位置しながらも、痩せた土地と険しい山々に囲まれた小国。
資源には恵まれず、決して豊かとは言えなかったが、そこには穏やかな時間が流れていた。
国王アリステアは「賢王」と呼ばれていた。
自ら鍬を持って畑を耕し、民と共に汗を流す。
争いを嫌い、外交と対話によって平和を維持してきた人格者。
アトスにとって、彼は主君である以上に、敬愛すべき父のような存在だった。
――憧れた。強く憧れた。
こんな光を纏った美しい人間でありたいと。
こんな風になりたいと。
だが、歯車は狂い始めた。
きっかけは、些細な領土摩擦だった。
ヴァニタスの北と南に位置する二つの中小国が、同盟を結んで侵攻してきたのだ。
狙いは、ヴァニタスの山脈から僅かに産出される魔石。
彼らは踏んだ。
貧しく、軍備も整っていないヴァニタスなど、数日あれば蹂躙できると。
それは、致命的な誤算だった。
彼らは知らなかったのだ。
この小さな国に、歴史を変えるほどの「怪物」が三人も産み落とされていたことを。
「……撤退! 撤退だぁぁッ!!」
北の国境線。
侵攻してきた五千の兵が、悲鳴を上げて逃げ惑っていた。
彼らを追い立てているのは、たった一人の少女だった。
「逃がすかよ。私の射程内だ」
セレーナが、戦意を失い逃げ惑う騎士めがけて無慈悲に掌をかざす。
降り注ぐ炎の雨。それは軍隊という概念を無意味にする、一方的な焼却作業だった。
南の国境線も同様だった。
剣一本でどんな魔法も両断する男、ジーク。
そして、王都防衛の要として立ち塞がった、全ての魔法を無効化する盾、アトス。
戦争は、一日で終わった。
圧倒的な勝利。奇跡の大逆転。
国民は熱狂した。
救国の英雄たちを「三強」と呼び、その名を讃えた。
だが、その熱狂が、賢王の目を濁らせた。
◇
「……素晴らしい」
戦勝祝賀会の夜。
王座の間で、アリステアは震える手で報告書を握りしめていた。
損害ゼロ。敵軍壊滅。
かつてない勝利の美酒に、王は酔いしれた。
「これだけの力があれば……我が国は、もう誰にも脅かされない。いや、それどころか」
王の瞳に、昏い光が宿る。
貧しさゆえに耐え忍んできた屈辱。
大国の顔色を伺い続けてきた卑屈さ。
それら全てを覆せる「力」が、今、手元にあるのだ。
――知ってしまった禁断の蜜の味。
子供が、初めて甘いジュースを飲んだ時の感動のように。
初めて美味しいお菓子を知ってしまった時の背徳感のように。
蜜の味を知ってしまえば、それを忘れることはできない。
「打って出るぞ、アトス」
王は言った。
「我々に牙を剥いた愚か者たちに、相応の報いを与えねばならん。これは正義の戦いだ。我が国の安全を恒久的なものにするための、聖戦だ」
最初は、報復だった。
侵攻してきた二国への逆侵攻。
それは民意にも叶い、正当防衛の範疇だと思われた。
だが、報復が終わっても、軍靴の音は止まらなかった。
「西の小国が、不当な関税をかけている」
「東の国境付近で、我が国の民が侮辱された」
王は次々と「戦う理由」を見つけ出した。
それは巧妙に正当化されていたが、実態はただの難癖に過ぎなかった。
アトスたちは命じられるままに戦場へ赴き、敵を蹴散らした。負けるはずがなかった。
三強がいる限り、ヴァニタス軍は無敵だったからだ。
一年が過ぎる頃には、ヴァニタスの領土は倍に膨れ上がっていた。
奪った土地から富が流れ込み、貧しかった国は潤った。
民は豊かさを享受し、王を称え、さらなる勝利を求めた。
「見ろ、アトス。民が笑っている」
城のバルコニーから、王都を見下ろして王は言った。
その顔には、かつての慈愛に満ちた表情はなく、力に溺れた支配者の傲慢さが張り付いていた。
「力こそが正義だ。力があれば、誰も不幸にならずに済む。……余は間違っていないな?」
アトスは答えられなかった。
民は笑っている。だが、その笑顔は、他国の民の涙と血の上に成り立っている。
奪うことで得た豊かさは、麻薬のように国を蝕んでいく。
「力は、人を狂わせる」
アトスは自室に戻り、呟いた。
かつて鍬を握っていた王の手は、今や地図の上で駒を動かすことしか知らない。
自らが強く憧れた賢王は、死んだ。
三強という過ぎた力が、彼を狂王へと変えてしまったのだ。
「アトス……」
扉の向こうから、悲しげな声がした。フレデリカ王女だ。
彼女だけが、変わっていく父と国を、涙を堪えて見つめていた。
「お父様は、もう止まらないのでしょうか」
「……分かりません」
アトスは扉越しに答えた。
止めなければならない。騎士として、この国の行く末を案じるならば、王を諫めるべきだ。
だが、アトスにはそれができなかった。
彼は「剣」であり「盾」だ。主の命令に従うことこそが、彼の存在意義だったからだ。
「……俺のせいだ」
アトスは拳を握りしめた。
俺たちが強すぎたから。
俺たちが、王に「万能感」という毒を与えてしまったから。
この狂乱の責任は、剣を振るう自分たちにある。
ヴァニタスは止まらない。
雪だるま式に膨れ上がる領土と、世界中から向けられる憎悪。
破滅への歯車は、もう誰にも止められない速度で回転し始めていた。




