38話 星降る夜の昔話
夜の海は、どこまでも深く、静かだった。
波が船体を叩く音と、マストがきしむ音だけが響く甲板に、三つの人影があった。
「……座れ」
手すりにもたれかかっていたセレーナが、持っていたワインボトルを木箱の上に置いた。
呼び出されたコレットとリザは、顔を見合わせ、言われた通りその場のベンチに腰を下ろした。
いつもとは違う、張り詰めた空気がセレーナから漂っている。
「カインは寝たか?」
「うん。薬が効いたみたいで、よく眠ってたよ」
リザが答える。
セレーナは短く頷き、グラスにワインを注いだ。夜風が彼女の赤い髪を揺らす。
その瞳は、暗い海原の彼方を見つめていた。
セレーナは二人に向き直った。
「単刀直入に言う。……『カイン』というのは偽名だ」
コレットが息を飲む気配がした。
リザは驚かない。感づいていたのだろう。
「あいつの本当の名は『アトス』。……かつてヴァニタスという国で最強と謳われた、騎士だ」
アトス。
その名は、この世界の魔法士ならば誰もが一度は耳にする、伝説と悪名に彩られた名前だ。
三強の一角。
『守護者アトス』
そして、国を見捨てて逃げた大罪人。
「……やっぱり、そうなんだ」
リザが膝を抱えたまま、ぽつりと呟いた。
「強すぎるもん。それに、あの魔法の使い方は教科書で読んだ『アトス』そのものだったし」
「コレット、お前はどうだ?」
「私は……」
コレットは胸元のアズライトの栞を握りしめた。
アトス。
歴史書の中の登場人物のような名前。
けれど、彼女の中で思い浮かぶのは、不器用な手つきでスープを飲み、煤だらけになって魔獣を倒し、優しく頭を撫でてくれた男の顔だ。
「……私にとっては、カインさんはカインさんです。名前が何であっても、あの方は私の恩人です」
迷いのない言葉。
それを聞いて、セレーナは口元を緩めた。
「……そうか。それでいい」
セレーナはグラスを傾けた。
「あいつ自身、アトスという名を捨てたがっている。過去の亡霊ではなく、ただの『カイン』としてお前たちの隣にいるなら、それが一番だ」
だが、とセレーナは言葉を切った。その瞳が、鋭く二人を射抜く。
「あいつが背負っている『咎』は、お前たちが想像するより遥かに重い。……知れば、あいつを見る目が変わるかもしれん。それでも聞く覚悟はあるか?」
脅しではない。確認だ。
これから語るのは、英雄譚ではない。
一人の男が壊れていくまでの、残酷な記録だ。
「聞かせてください」
コレットは真っ直ぐにセレーナを見つめ返した。
「カインさんが悪夢にうなされている理由を、私は知りたいです。……知って、支えたいんです」
「私もだよ。私はもう、相棒みたいなもんだし。相棒の過去なら知っとかないとね」
リザも強気に笑う。
セレーナは満足げに頷き、空になったグラスを置いた。
「いいだろう。……長い話になるぞ」
セレーナは夜空を見上げた。
満天の星。
十五年前、あの日も見上げた、無慈悲なほど美しい輝き。
「時は遡る。……今から十五年前。大陸中央に位置した小さいが美しかった国、ヴァニタス」
セレーナの声が、波音に溶けていく。
「そこには、三人の若者がいた。……全てを斬り裂く剣を持った男、剣聖、ジーク。全てを焼き尽くす炎を持った私。そして……全てを守る盾を持った、アトス」
語り始めたのは、終わりへと向かう国の物語。
まだ誰も「罪」を知らず、ただ純粋に明日を信じていた頃の記憶。




