37話 出航
翌朝。
一行は馬車に揺られ、オダイ・ジニを後にした。
街の人々には告げず、夜明けと共にひっそりと発った。
英雄としての歓送迎会など、カインもセレーナも真っ平御免だったからだ。
「……あーあ。もうちょっと温泉入ってたかったな」
馬車の窓から遠ざかる白亜の街を見つめ、リザが残念そうに呟いた。
「また来ようよ。みんなで」
コレットがそう言って微笑む。
向かいの席では、カインが腕を組んで目を閉じたまま、揺れに身を任せていた。
体力の回復に努めているのだ。
その隣で、セレーナが脚を組み、羊皮紙の書類に目を通していた。
「港に着いたら、余計な動きはするなよ。私の顔パスで乗るんだ。特に、お前のその人相の悪さで怪しまれたら面倒だ」
「誰の人相が悪い」
カインは片目だけ開けて抗議したが、セレーナは鼻で笑って無視した。
二人のその遠慮のないやり取りを、コレットは少し羨ましそうに、リザはニヤついて観察していた。
◇
半日ほどで、潮の香りが漂ってきた。
港町『ポルト・ロッサ』。
大陸西岸に位置する貿易の拠点で、無数の船が行き交う活気ある街だ。
「うわぁ……海!」
コレットが歓声を上げる。
内陸の村しか知らない彼女にとって、海を見るのは初めての経験だった。
水平線の彼方まで続く青。その広大さに、心が洗われるようだ。
彼女たちが向かったのは、港の一等地に停泊している巨大な客船だった。
白く塗装された船体には、金色の装飾が施されている。
「『海原の貴婦人』号だ。学術都市アレクサンドラ行きの定期便だが、今回は特別室を押さえてある」
「へぇ、豪華だね。さすが紅蓮の魔女様、太っ腹!」
リザが口笛を吹く。
セレーナはタラップを上がりながら、衛兵に一枚のプレートを見せた。
衛兵は直立不動で敬礼し、最敬礼で道を開ける。
「どうぞお通りください、セレーナ様! 出航の準備は整っております!」
顔パスどころか、VIP待遇だ。
カインは溜息を吐き、荷物を担いで後に続いた。
目立つのを嫌う彼にとって、セレーナとの旅は別の意味で神経を使う。
船室は、最上階のスイートだった。
広々としたリビングに、ふかふかのベッド。窓からは一面のオーシャンビュー。
貧乏旅行を続けてきたカインたちには、眩しすぎるほどの贅沢だ。
「……落ち着かんな」
カインは革張りのソファに深く沈み込んだ。
魔力欠乏の倦怠感はまだ抜けない。柔らかいクッションが、重い体を優しく受け止める。
「慣れろ。アレクサンドラまでは三日の船旅だ。その間、お前はここで大人しく寝ていろ」
セレーナはワインボトルを開け、グラスに注いだ。
「コレット、リザ。お前たちは好きにしていい。甲板に出るのも自由だが、はしゃぎすぎて船から落ちるなよ」
「大丈夫だって! 行こうコレット!」
「うん!」
二人は荷物を置くと、すぐさま部屋を飛び出していった。
嵐のような元気さだ。
残されたのは、カインとセレーナ、そして波の音だけ。
「……平和だな」
カインが呟く。
セレーナはグラスを傾け、窓の外へ視線を投げた。
「ああ。……ここには泥人形も、腐った術師もいないしな」
船が動き出した。
低い汽笛の音が響き、岸壁がゆっくりと離れていく。
カインは窓の外を流れる景色を見つめた。
――どこまでも続く雄大な海。
この船は、海を越えて新しい目的地、学術都市アレクサンドラへと向かう。
だが、どれだけ遠くへ行こうとも、コレットの本当の故郷――「メモリア大陸」には決して辿り着くことはない。
(……帰る場所のない旅、か)
カインは目を細めた。それは、国を捨てて彷徨う自分自身とも重なる。
「セレーナ」
カインがセレーナを呼んだ。
「何だ」
「……今夜、あいつらに、お前の口から話してくれ。あのことを」
「何故私が? 自分で話さないのか?」
「……そういうのは苦手だ。頼む」
カインはセレーナを見た。
カインの瞳は真剣だった。
昨晩の会話。『隠し事は信頼を殺す』
カインが自分なりに出した結論がそれだった。
「まあ、私は構わんが」
「助かる」
カインは視線を窓に向けた。
いつかは知られるべき過去だ。
それが今夜だというなら、運命に身を任せるのも悪くない。
話を聞いたあと、二人が自分をどう思おうと。
セレーナは微かに笑い、部屋を出て行った。
波音だけが残る部屋で、カインは深く息を吐いた。




