36話 夜明け前の告解
深夜。
街の喧騒はなりを潜め、窓の外には静寂だけが広がっている。
カインはベッドに腰掛け、月明かりに照らされた自分の掌を見つめていた。
魔力は戻りつつあるが、全快には程遠い。指先を握り込むと、微かな痺れが残っている。
コン、コン。
控えめな、しかし確かな意思を感じさせるノックの音がした。
「……鍵は開いている」
カインが答えると、ドアが静かに開いた。
入ってきたのはセレーナだ。
昼間の白衣姿ではなく、簡素なシャツにズボンというラフな格好をしている。
手には琥珀色の液体が入った瓶と、グラスを二つ持っていた。
「寝ていたか?」
「起きてる」
「なら、付き合え」
セレーナは問答無用で部屋に入り込み、窓際のテーブルに酒瓶を置いた。
カインは小さく息を吐き、向かいの席に座る。グラスに酒が注がれる。
芳醇な香りが部屋に満ちた。
「……いい酒だ」
「バルザックの隠し財産から失敬してきた。あいつにはもう必要ないものだ」
セレーナは悪びれもせず言い、自分のグラスを煽った。
カインも口をつける。喉を焼くような強い酒だ。
「……この十五年、何をしていた?」
不意に、セレーナが問うた。
視線は合わせない。ただ、グラスの中の氷を見つめながら、独り言のように。
「噂じゃ、何処かの国で野垂れ死んだと聞いていた。……まさか、生きたまま亡霊のような顔をして彷徨っているとはな」
皮肉めいた言葉。
だが、その響きには微かな安堵が混じっている。
カインは酒を揺らした。
「……何もしていない。ただ、歩いていただけだ」
「歩くだけ?」
「ああ。死に場所を探していたのかもしれんし、ただ足が止まらなかっただけかもしれん。……覚えていない」
嘘ではない。
目的もなく、希望もなく。
ただ、強すぎる力が暴走しないよう、自分という存在を世界から隠すように生きてきた。
あの森で、行き倒れてコレットに拾われるまでは。
「……そうか」
セレーナは短く答え、再び酒を注いだ。それ以上、過去については聞かない。
カインが背負っている虚無の重さを、彼女は誰よりも理解しているからだ。
「……それにしても……お前があんなチビ共二人を連れて旅をしていると聞いた時は、正直信じられなかった」
セレーナが口元を緩めた。
「子守りができるような男だとも思わなかったし、あんなに懐いているとも思わなかった」
「……純粋な奴らだからな」
カインは短く返した。
リザも、コレットも。
打算や悪意で近づいてくる人間ばかりを見てきたカインにとって、彼女たちの真っ直ぐな信頼は、眩しく、そして心地よかった。
「コレットは、優しい子だ。縁もゆかりも無い他人を自分の命をかけて助けようとする。……あのバルザックですら、な」
「ああ」
カインは頷いた。
あの地下霊廟で、コレットはバルザックを殺させまいとした。
相手がどんな悪党であっても、目の前で命が消えることを良しとしない。
その甘さが、危うくもあり、尊くもある。
「今は、私の弟子だ」
セレーナの声色が、ふっと低くなった。
「あの子を泣かしたら、お前を殺すからな」
「……随分とお気に入りだな」
殺気すら孕んだ脅し文句に、カインは苦笑した。
セレーナもまた、コレットのひたむきさに惹かれた一人なのだろう。
「それはお前も同じだろう」
セレーナに見透かされたように言われ、カインは言葉を詰まらせた。
否定はできない。
あの日、森で拾われたのは、コレットの方ではなく自分だったと自覚しているからだ。
「……ジークとは会ったか?」
カインは話題を変えた。
三強の最後の一人。マナを持たぬ剣聖。コレットと同じ、転生者である。
「知らんな。どうせあいつは、その辺で根無し草のようにフラフラ生きているだろう」
セレーナは興味なさげに肩をすくめた。
だが、その目には微かな憂いの色があった。
三人で馬鹿騒ぎをした日々。背中を預け合った戦場。
それらはもう、戻らない過去だ。
「……お前は、まだ夢を見るか?」
カインが問う。セレーナの手が止まった。
「なんの夢だ?」
「分かるだろう」
亡国ヴァニタスの最後の日。燃え落ちる城壁。逃げ惑う民衆。
そして、守るべき国を見捨てて背を向けた、自分たちの姿。
「……見るさ。忘れられるわけがない」
セレーナはグラスを強く握りしめた。
「そういうお前はどうなんだ」
「……」
カインは沈黙した。
夢などという生易しいものではない。
リザが血を流したあの一瞬でさえ、フラッシュバックして理性を消し飛ばすほどの鮮烈な呪い。
「……沈黙か。まあ、気持ちはわかる」
セレーナは溜息を吐き、残った酒を飲み干した。
「だが、前に進むべきだ。いつまでも亡霊のままでいていいわけがない」
「……それが出来たら、こんな生き方はしていない。俺はそんなに器用じゃない」
カインの言葉は重かった。
前に進むことへの恐怖。
新しい何かを得ることは、過去への裏切りになるのではないかという罪悪感。
それが、彼を「咎人」として縛り付けている。
「……そうだな。不器用な男だ」
セレーナは呆れたように言い、立ち上がった。そして、カインを見下ろす。
「……で? お前、あの二人にどこまで話した?」
セレーナの言葉にカインは沈黙した。グラスの縁を指でなぞる。
「……話していない」
「だろうな」
「話す必要がない。あいつらは、ただの成り行きで同行しているだけだ。俺の過去など、知ったところで重荷になるだけだ」
「これまでは、な」
セレーナが言葉を遮った。
「だが、これからは違う。リザは勘が鋭い。コレットも、お前の『影』に気付き始めている。……何より、お前自身が、あいつらをただの『荷物』とは思っていないだろう?」
図星だった。
コレットの涙に胸を痛め、リザの傷に激昂した。
それはもう、単なる「一食の礼」の範囲を超えている。
カイン自身が、彼女たちを仲間だと認識している証だった。
「これからも旅を続けるつもりなら、話すべきだ。……隠し事は、いつか信頼を殺す毒になる」
セレーナの言葉は重い。
彼女もまた、かつて多くの秘密と嘘の中で戦い、傷ついた経験があるからだ。
「お前は強い。だが、一人で抱え込んで自滅するのがお前の悪癖だ。……少しは、あいつらに背負わせてやれ。あのチビどもは、お前が思っているよりずっとタフだぞ」
カインは窓の外を見た。
夜空には、満月が浮かんでいる。
コレットの笑顔。リザの強がり。
彼女たちの信頼を、自分は裏切り続けているのではないか。
「このまま何も知らないまま笑っていてほしい」というのは、自分のエゴではないのか。
カインは残った酒を一気に飲み干し、グラスを置いた。
「……そうかもな」
短い肯定。
だが、それはカインにとって、大きな一歩だった。
セレーナは満足げに口元を緩めた。
「昔話はこの辺にするか……明日は早い。港まで馬車を飛ばす」
「ああ」
「寝ておけよ、元・最強。お前を倒したんで、今は私が最強だ」
「セレーナ」
「なんだ? 私の身体を傷モノにした詫びに嫁にでも取ると言い出すか? 生憎だが私はーー」
「コレットとリザを守ってくれてありがとう」
「………。はっ。気色の悪い。酔いも覚めたわ。じゃあな」
セレーナはヒラリと手を振り、部屋を出て行った。
残されたカインは、空になったグラスを見つめ、深く息を吐いた。
話すべきだろう。
自分が何者で、何を捨ててきたのか。
それが、彼女たちと共に歩むための「資格」になるのなら。
カインはベッドに横たわり、目を閉じた。
不思議と、今夜は悪夢を見ない気がした。




