35話 お大事に!
オダイ・ジニの朝霧が晴れていく。
数日間にわたって街を覆っていた重苦しい澱みは、嘘のように消え失せていた。
通りには露店が並び始め、病み上がりではあるが、人々の顔には生気が戻っている。
カインはベッドの上で、泥のように眠っていた。
魔力欠乏の反動は重い。セレーナ曰く「あと三日は使い物にならん」とのことだ。
「……よく寝てるね、カイン」
リザが枕元で顔を覗き込む。
カインはピクリとも動かない。規則正しい寝息だけが聞こえる。
「相当無理したんだね。……ま、おかげで私たちは無事なんだけどさ」
リザはカインの布団を掛け直すと、振り返ってニカッと笑った。
「よし! というわけでコレット、遊びに行こう!」
「えっ? あそび?」
「そう! この街に来た時、話したでしょ? 美味しいものと温泉! カインが寝てる間に満喫しなきゃ損だよ!」
コレットは少し迷うようにカインを見たが、リザに腕を引かれた。
「看病はセレーナ様がしてくれるって。たまには息抜きも必要だよ。ね?」
「……うん。そうだね」
コレットは頷いた。
ずっと張り詰めていた心が、リザの明るさに救われる。
二人は静かに部屋を出て、眩しい朝の街へと繰り出した。
◇
「見て見て! これ、『ヤキ・ソバ』だって!」
リザが露店で買ってきたのは、鉄板で炒めた麺料理だった。
焦げた黒いタレの香ばしい匂いが食欲をそそる。コレットは一口食べて、目を丸くした。
「おいしい! ちょっと味が濃いけど、野菜がシャキシャキしてて……不思議な味だね」
「この黒いタレ、大賢者様が発明した『ソース』っていう秘伝の調味料らしいよ。色んな野菜とかを煮込んで作るんだって」
リザが得意げに解説する。
コレットは感心しながら麺を啜った。メモリア大陸の宮廷料理にはない、パンチの効いた庶民的な味わいだ。
「こっちは『ナゾ・ヤキ』! この丸い玉みたいな生地の中に海の魔物の肉が入ってるんだってさ〜。これもソース味で、焼きたてを一口で食べるのが流儀みたいだよ」
「あつっ!! ……あふいけど……ふふ、まん丸で面白い形。大賢者様って、ユニークな方だったんだね」
二人は食べ歩きをしながら、白亜の街を巡った。
街の至る所に、他の国では見ない不思議な光景があった。
薬屋の軒先には、オレンジ色の小さな象の置物が飾られている。
広場では、子供たちが不思議なリズムの音楽に合わせて一斉に体操をしている。『聖堂体操第一』と呼ばれているらしい。
そして、極めつけは――
「着いたよ! ここが大陸一の温泉『極楽湯』!」
リザが指差した先には、巨大な木造建築があった。入り口には『ゆ』と書かれた、謎の文字の暖簾が掛かっている。
「……変わった文字だね。古代の魔術文字かな?」
「なんか、『癒やし』って意味があるらしいよ」
コレットは首を傾げつつ、リザと共に中へ入った。脱衣所で服を脱ぎ、湯気かおる浴室へ。
「うわぁ……広い!」
リザが歓声を上げる。
広大な湯船。その奥の壁には、雄大な山の絵が描かれていた。頂上が白く雪化粧した、青い山。
どこの山脈だろうか、神々しくも親しみやすい。
「気持ちいい〜……! 生き返るぅ〜」
お湯に浸かったリザが、おっさんのような声を上げて脱力する。
コレットも隣に浸かり、ほうっと息を吐いた。
温かい。カインの手の温もりとはまた違う、全身を包み込むような優しさ。
戦いの緊張が、お湯に溶けていくようだ。
ふと、コレットはリザの肩に目をやった。
乳白色の濁り湯から出たその肩には、痛々しい古傷がくっきりと残っている。
リザは、コレットの視線に気づいていた。
「……気になる? 服を脱いだ時からずっと気にしてたでしょ? 普段は服で隠してるからビックリしたよね」
「……」
コレットは、言い訳できずに目を逸らす。
「……父親がね。そういう人だったんだ」
その一言の重みは想像を絶する。肩だけではない。背中や腹、腕、足に至るまで、全身に凄惨な傷痕が刻まれている。
リザはその傷痕をなぞるように指を滑らせた。
「人ってさ、生まれる場所を選べないから大変だよね」
コレットはリザの肩の傷に優しく触れた。その手のひらから暖かい光が溢れ、リザの体を包み込む。
しかし、傷痕は消えない。微かに色が薄くなることもなく、そこに留まっていた。
「……ごめん。私が未熟だから、消してあげられない」
俯くコレットを見て、リザはフッと小さく笑った。
「……ねえ、コレット」
リザがお湯をパシャパシャと叩きながら言った。
「ありがとうね」
「え?」
「あの時、見捨てないでくれて。……私、コレットがいなきゃ、今頃どうなってたか分かんないや。あの時コレットが、みんなのこと助けたいって言ってくれたから……赤蛇からもみんなを守れた」
リザの顔は赤い。のぼせたせいだけではないだろう。
素直じゃない彼女なりの、精一杯の感謝。
「ううん。私も、リザちゃんがいてくれてよかった。私だってリザちゃんにいっぱい感謝してるんだから」
コレットは微笑んだ。
「一人じゃ怖かったけど、リザちゃんと一緒だったから、ここまで頑張れたんだよ」
「……へへっ。よせやい」
リザは照れ隠しに潜水し、ぶくぶくと泡を吐いた。
湯船の中で、二人の笑い声が響く。
風呂上がり。
脱衣所には、冷えた『コーヒー牛乳』なる黒い飲み物が売っていた。腰に手を当てて一気飲みするのが、この街の作法らしい。
「ぷはーっ! 苦いけど甘い!」
「不思議な飲み物だね。これも薬の一種なのかな?」
空き瓶を返却し、外に出ると、夕日が街を赤く染めていた。
心地よい疲労感と、ぽかぽかとした余韻。
「楽しかったね、コレット」
「うん。とっても」
二人は並んで歩き出した。
帰り道、雑貨屋の店先に、片手を挙げた白い猫の置物を見つけた。
小判のような金貨を抱えている。
「あ、これ『マネキネコ』だ。福を呼ぶんだって」
「へぇ……可愛いね。手招きしてるみたい」
コレットはその置物をじっと見つめた。
不思議な食べ物に、不思議なお風呂、そして可愛らしい置物。
この街を作った大賢者は、とても遊び心があって、人々を笑顔にするのが好きな人だったのかもしれない。
カインが言っていた「魔法は暮らしを豊かにするもの」という言葉が、すとんと胸に落ちた気がした。
「帰ろ! カインにお土産、何がいいかな? ……ん? なんだこれ? ろしあんまんじゅう?」
「なに? それ?」
「ほーん。甘いまんじゅうの中にひとつ、超辛いやつが入ってるみたい」
リザが小悪魔的な笑みを浮かべる。
「これにしよう。おみやげ」
「えぇっ!?」
「見てみたくない? カインが悶絶する顔」
「……ちょ……ちょっと見てみたいかも……」
リザがイタズラっぽく笑う。
そうだ。今は、この温かい場所があれば十分だ。
「お土産も買ったし! 帰ろ!」
「うん。そうだね。リザちゃん」
二人は手を繋ぎ、カインの待つ宿へと歩き出した。
長く伸びた二つの影が、石畳の上で一つに重なっていた。
その姿はまるで本物の姉妹のように。




