32話 レイネシア
「……カインさんッ!」
コレットは、セレーナの腕の中で膝をついたカインに駆け寄った。
彼の瞳は開かれているが、硝子玉のように光を反射するだけで、焦点はどこにも合っていない。肉体の暴走は止まった。
だが、魂はまだ虚無の底を漂っている。
「……あとは、お前の役目だ」
セレーナが荒い息を吐きながら、場所を譲った。全身が酷い火傷で爛れているが、その瞳は力強くコレットを促している。
コレットは頷き、カインの正面に跪いた。泥と煤、そしてセレーナの炎で焦げたシャツ。
その胸に、そっと手を当てる。
(戻ってきて……。お願い……!)
コレットは祈った。
胸元のアズライトの栞が、呼応するように熱を帯びる。
青い光が溢れ出し、カインとコレットの二人を包み込んだ。
フッ、と世界が反転する感覚。
コレットの「光」が、カインの内側――深く、暗い深淵へと届く。
◇
気付くと、カインは知らない場所に立っていた。
寒々しい石造りの回廊。
窓の外には、見たことのない灰色の空と、荒涼とした大地が広がっている。
レーテ大陸ではない。空気の味が違う。マナの濃度も、質も違う。
「……どこだ、ここは」
声に出すが、音にならない。
自分という存在が希薄だ。
ただの視点、観測者になっているような感覚。
ふと、回廊の奥から足音が聞こえた。現れたのは、豪奢なドレスを着た少女だった。
透き通るような銀色の髪。
氷のように冷たく、澄んだ青色の瞳。
コレットだ。
容姿は似ても似つかないが、本能的にそれがコレットであることを理解した。
『……本日も、治療の儀を行います』
少女――レイネシアは静かに呟き、重厚な扉を開けた。
中は病室だった。
ベッドに横たわる貴族らしき男。その周囲を囲む大人たち。
彼らはレイネシアを見ると、敬意ではなく、貪るような欲望の目を向けた。
『さあ、レイネシア様。奇跡を』
『お前の価値を示す時だ』
レイネシアは無言で手をかざす。
放たれる金色の光。
男の傷が瞬く間に塞がり、顔色が戻っていく。
大人たちが歓声を上げる。
だが、誰も彼女を労わない。
頭を撫でることもしない。
レイネシアもまた、笑わない。
ただ、道具としての役割を果たしたことに安堵し、静かに部屋を出ていくだけだ。
(……なんだ、これは)
カインは理解した。
今見ているこれは、コレットの……彼女自身が「忘れてしまった」と言っていた、前世の記憶だ。
彼女の魂と同調したことで、深層に眠る記録が再生されているのだ。
場面が変わる。
美しい庭園。
陽光の下で、レイネシアが家族と茶を楽しんでいる。
優しげな父王、病弱だが微笑む母妃。
そして、彼女を挟んで笑い合う兄と妹。
『レイネシア、今度の試験も一番だったそうだな』
『さすがはお姉様です!』
兄が頭を撫で、妹が抱きつく。
レイネシアは照れくさそうに、けれど心底嬉しそうに笑っていた。
幸せな光景。
愛されていた。彼女は確かに、家族の愛に包まれていた。
だが、カインは見てしまった。
その幸福な食卓を取り囲む、大臣や貴族たちの冷ややかな視線を。
彼らは「治癒の力を持つ王女」を危険視し、あるいは利用しようと画策している。
レイネシアもそれに気付いているのか、ふとした瞬間に見せる表情は、年齢にそぐわないほど張り詰めていた。
(……無理をして笑っていたのか)
また、場面が変わる。
今度は、怒号と悲鳴が渦巻いていた。
幸福な庭園は燃え上がり、石畳は血で赤く染まっている。
王位継承戦争。
権力欲に憑かれた者たちが、仲の良かった家族を引き裂いたのだ。
『お逃げ下さい! レイネシア様!』
護衛の騎士の叫び声。
レイネシアは走っていた。
たった一人で、誰も助けてくれない回廊を。
銀色の髪が煤で汚れ、青い瞳が絶望に揺れている。
『どうして……』
行き止まり。
追い詰められたレイネシアの前に、剣を持った男たちが立ちはだかる。
その中心にいたのは、見覚えのある顔だった。あの優しかった兄、ギルバートだ。
だが、その瞳にはかつての温かさはなく、氷のような冷徹さだけが宿っていた。
『……悪く思うな、レイネシア』
ギルバートが剣を向ける。
その手は微かに震えていたが、殺意は本物だった。
『お前のその力は、国を乱す。……父上も母上も、お前を守ろうとして死んだ。お前がいなければ、この国はもっと平穏だったはずなんだ』
『兄、様……?』
『恨むなら、その呪われた力を恨め』
ギルバートが剣を振り上げる。
レイネシアは瞳を見開き、絶望に染まる。
信じていた兄に否定され、愛する家族の死の原因だと突きつけられた。
死ぬことよりも深い、心の殺害。彼女の人生は、ここで終わる。
『どうして……こんな世界に生まれてきてしまったんだろう』
愛された記憶さえも、最後には「呪い」として塗りつぶされる地獄。
「――やめろォォォッ!!」
カインは叫んだ。
観測者であるはずの彼が、実体を持ってその場に顕現する。
ギルバートの剣と、レイネシアの間に割って入る。
最強の結界を展開し、凶刃を受け止める。
ガギィンッ!!
幻影であるはずの剣が、硬質な音を立てて弾かれた。時が止まる。
燃える城も、変わってしまった兄も、ガラス細工のようにひび割れ、砕け散っていく。
後に残ったのは、暗闇の中で蹲る、銀髪の少女だけ。
「……あ……」
少女が顔を上げた。
うつろな青い瞳。
彼女は、目の前に立つカインが見えていないようだった。
これは記憶の残滓。
もう終わってしまった悲劇の記憶。
(……こんなものを、抱えていたのか)
カインは拳を握りしめ、震える少女の幻影の前に跪いた。
「もういい」
カインは、その小さな肩に手を伸ばした。
触れることはできない。
けれど、誓うことはできる。
「こんな結末は、全部捨てていい。お前が背負う必要はない」
カインは、少女の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「お前が愛された記憶も、失った痛みも。全部俺が預かる。だからお前は、これからのことだけを考えろ」
今日の夕飯のこと。
明日の天気のこと。
新しく買ったブーツの履き心地や、道端に咲く花の名前。
そんな、些細で幸福な記憶だけで、お前の心を満たせ。
「俺が代わりに覚えてる」
カインが呟くと同時、世界が白く弾けた。
◇
「……っ、はぁ……!」
カインが大きく息を吸い込み、目を見開いた。
視界に映るのは、心配そうに覗き込むコレットと、呆れた顔をして火傷を負っているセレーナ、そして壁際で心配そうに座り込んで見ているリザの顔。
地下霊廟の崩れた天井から、朝日が差し込んでいる。
「カインさん……!」
コレットが安堵の声を上げた。
カインは体を起こし、自分の手を見た。震えは止まっている。虚無も消えた。
ただ、胸の奥に、焼き付くような「レイネシアの記憶」の痛みだけが、重く沈殿していた。
「……大丈夫ですか? 随分とうなされていましたけど……」
コレットが、ハンカチでカインの額の汗を拭う。
彼女の瞳は澄んでいる。
カインが見たあの地獄を、彼女自身は見ていないのだ。
ただ純粋に、カインを心配して光を届けに来ただけ。
「……悪い夢でも、見ていたんですか?」
コレットの問いに、カインは一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「……少し、昔の夢を見ただけだ」
真実を告げる必要はない。
転生者が前世の記憶を失っていく理由はわからない。
忘れたい記憶だったから忘れたのか、本人の意志とは関係なく、この世界での記憶が塗りつぶしていくのか。
分からないがコレットに至ってはそれは幸運だったのかもしれない。
本人は記憶を忘れることを恐れているが、覚えていなくてもいい事は人生にはある。
だから、彼女は何も知らず、ただ笑っていればいい。
そのために、自分がいるのだから。
(……約束する)
カインは心の中で、誰にともなく誓った。
あの地獄は、二度と繰り返させない。
知ってしまったら、知らないフリはできない。
「……心配をかけたな。それと、助かった。ありがとう」
カインがコレットの頭を撫でると、彼女は泣き笑いのような顔で、強く頷いた。




