27話 正気と狂気
視界が歪む。
カインから放たれる漆黒の奔流が、地下霊廟の空間そのものを軋ませ、削り取っていく。
死ではない。圧倒的な「生」の過剰供給。
触れた岩盤が急激に風化し、またある部分は苔生し、異常な速度で崩壊と再生を繰り返している。
「……あぁ」
バルザックは、震える手でその光景に見入っていた。
恐怖はある。だが、それ以上に魅入られていた。
自分が求めていた「永遠」の片鱗が、そこにあったからだ。
走馬灯のように、記憶が蘇る。
少年時代のバルザックは、神童と呼ばれていた。
薬師の聖地、オダイ・ジニ。この街で生まれ育った彼は、誰よりも早く薬草の名を覚え、調合の理屈を理解した。
動機は単純だった。母が病弱だったのだ。
毎晩、苦しそうに咳き込む母の背中をさすりながら、幼いバルザックは誓った。
いつか、どんな病気でも治せる「万能薬」を作ってみせる、と。
だが、現実は残酷だった。
母はバルザックが十歳になる前に死んだ。
どれだけ知識を詰め込んでも、どれだけ正確に薬を調合しても、死という絶対的な摂理の前では無力だった。
冷たくなった母の手を握りながら、少年は悟った。人の命は、あまりに脆く、儚い。
それは「尊い」などという綺麗な言葉で飾れるものではなく、ただの欠陥だ。
『死にたくない』
それが、彼の行動原理の全てになった。
青年になったバルザックは、中央診療所の研究員となり、狂ったように研究に没頭した。既存の医学では限界がある。
ならば、魔法だ。錬金術だ。古代の遺産だ。
使えるものは何でも使った。倫理などという曖昧な枷は、生への執着の前では無意味だった。
そして、皮肉な運命が彼を嘲笑う。
三十歳を過ぎた頃、バルザック自身が、母と同じ病に侵されたのだ。
――『黒死病』。
肺が炭化し、呼吸ができなくなって死に至る、治療法のない奇病。
余命は半年。
自分が積み上げてきた全ての知識が、「お前は助からない」と宣告していた。
「……嫌だ。死にたくない。消えたくない!」
夜毎、喀血しながら彼は泣き叫んだ。
研究室の床を爪が剥がれるまで掻きむしり、髪を引きちぎり、神を呪った。
なぜ私なのか。人を救おうとしてきた私が、なぜこんな惨めな死に方をしなければならないのか。
その時だ。
地下の禁書庫で、大賢者の遺した「ある研究記録」を見つけたのは。
『生命の譲渡と保存に関する考察』
他者の生命力を抽出し、自身の欠損した寿命に充填する。
――禁忌の術式。
だが、バルザックにはそれが、暗闇に垂らされた唯一の蜘蛛の糸に見えた。
最初は、小動物だった。次は、身寄りのない浮浪者。
罪悪感はあった。
だが、彼らの命を吸うたびに、黒ずんだ肺が再生し、呼吸が楽になる快感には抗えなかった。
生きている。私は生きている。
その実感だけが、彼を正気に繋ぎ止めていた。
「もっとだ。もっと純度の高い、大量の命があれば……私は死を超越できる」
そうして彼は、この地下霊廟に籠り、街全体を食い物にするシステムを作り上げた。
自分は選ばれた存在だ。無知蒙昧な大衆の命など、天才である自分が生き永らえるための燃料に過ぎない。
そう思い込むことで、彼は自分の心を守り、そして人としての最後の一線を踏み越えた。
◇
「……これが永遠か」
バルザックは、目の前で暴走するカインを見つめ、涙を流した。
自分が数千人の命を犠牲にして、継ぎ接ぎだらけの術式でようやく辿り着こうとしていた境地。
それを、この男はたった一人で、無尽蔵に垂れ流している。
他人の命など必要ない。彼自身が、歩く「賢者の石」そのものだ。
「欲しい……その力が、欲しい……!」
バルザックは叫んだ。
恐怖も、保身も、もうどうでもよかった。ただ、その輝きに触れたい。
その奔流を我が物にして、永遠の安らぎを得たい。
「よこせェェッ!!」
バルザックは杖を掲げ、黒い水晶の出力を限界まで引き上げた。
自壊することなど厭わない。リザを傷つけ、カインの逆鱗に触れたことへの後悔などない。
彼はもう、引き返せない場所まで堕ちていたのだから。
黒い泥が波となってカインに襲いかかる。
だが、カインは虚ろな瞳のまま、ただ片手をかざした。
ゴォォォォ……ッ。
風ではない。
純粋な魔力の波動が、泥の波を原子レベルで分解し、消滅させた。
そして、その余波がバルザックを襲う。
「ガハッ……!?」
吹き飛ばされ、壁に叩きつけられる。全身の骨が砕ける音がした。
痛い。苦しい。死ぬ。
かつて母のベッドサイドで感じた、あの冷たい絶望が蘇る。
「……あ、あぁ……」
バルザックは床を這った。
死にたくない。まだ、死にたくない。
死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。
視界の端で、天井に亀裂が走り、崩落が始まっているのが見えた。
光が差し込む。
だが、その光は彼を救うものではない。彼を裁くための、断罪の光だ。
瓦礫が降り注ぐ中、バルザックは最後に見た。
虚無の瞳で自分を見下ろす男。
それは、彼が焦がれ続けた「死神」の姿そのものだった。




