26話 罠
「消えろ」
カインが指先を振るう。
放たれた風の刃は、岩をも断つ鋭利さでバルザックに迫る。
だが、バルザックは動じない。彼が杖を軽く掲げると、背後の黒い水晶が脈打ち、ドス黒い障壁が展開された。
ガギィンッ!!
風刃が弾かれる。
高密度の魔力障壁。それを維持しているのは、この街から吸い上げられた膨大な生命力だ。
「……やはり、個人の出力では限界があるか」
バルザックはそう呟く。
目の前の男が放つ魔法は、構成も威力も桁外れだ。まともにやり合えば数秒で蒸発させられるだろう。
だが、バルザックに焦りはない。彼は戦闘を楽しんでいるわけでも、勝利に酔っているわけでもない。
ただ、淡々と「実験データ」を処理するように杖を振るう。
「ならば『量』で押し潰す。非効率だが、確実な手だ」
水晶から溢れ出した黒い泥が、無数の触手となってカインに襲いかかる。
カインは氷結魔法で迎撃するが、凍らせた端から泥は増殖し、波のように押し寄せる。
力押しで吹き飛ばせば、地下空間ごと崩落する危険性があり、リザを守りきれない。
カインは眉をひそめた。手詰まりではない。だが、手間がかかる。
「終わりにするぞ」
カインが両手を広げた。
詠唱はない。だが、その空間に満ちるマナの密度が、劇的に跳ね上がる。
全属性の複合魔法。防御不可能な一点突破の崩壊術式を構築しようとした、その瞬間だった。
「――捕捉した」
バルザックが、ボソリと呟いた。
カインの足元の石畳が、幾何学模様に輝く。
それは魔法陣ではない。古代の遺産――大賢者が遺した「魔力反射鏡」の欠片を埋め込んだ、対魔法士用の罠。
「高出力の魔力源……利用させてもらおう」
キィィィンッ!
耳障りな高周波音と共に、カインが練り上げていた魔力が逆流した。
制御を乱され、カインの身体を覆う『術式乖離』の結界が一瞬だけ機能を停止する。
ほんの数秒にも満たない、瞬きの間の無防備。
バルザックは、その隙を見逃さなかった。殺意も、憎悪もない。
ただ「邪魔な障害を取り除く」という事務的な動作で、袖口から黒い泥の刃を射出する。
狙いはカインではない。カインが庇いきれない死角――背後のリザだ。
「――っ!」
カインが反応する。
だが、結界は消えている。体勢は崩れている。間に合わない。
ザシュッ。
肉が裂ける、湿った音が響いた。
「あ……」
リザの口から、小さな息が漏れた。
彼女の脇腹を、泥の刃が浅く、しかし確実に切り裂いていた。
鮮血が舞う。赤い飛沫が、カインの頬に散った。
「……カイン……ごめ……」
リザが膝から崩れ落ちる。その体を受け止めたカインの手が、温かい血で濡れた。
――赤。
視界が赤く染まる。
ドクン。
カインの心臓が、早鐘を打った。目の前の光景が、歪む。
リザの姿が、別の誰かと重なる。
――燃え盛る城。
――腹部から血を流す、美しいドレスの女性。
――『ごめんなさい……アトス……貴方に心からの感謝を……』
「……ア……ァ……」
カインの口から、意味を成さない音が漏れた。
「……急所は外れたか。まあいい」
バルザックは残念そうに呟き、すぐに次の手順へと意識を切り替えた。
目の前の男が壊れかけていることになど、興味はない。ただの排除対象でしかない。
「次は本体だ。その豊富な魔力、賢者の石の最後の糧になってもらう」
バルザックが水晶の出力を上げる。
だが、カインは動かない。リザを抱いたまま、うつむいている。
「抵抗なしか? 賢明な判断だ」
ギチチチチ……ッ。
バルザックの言葉が止まった。異音。
空間そのものが悲鳴を上げているような、不快な音。
それがカインから発せられていることに気付いた時、初めてバルザックの表情に「困惑」が浮かんだ。
「……なんだ? その魔力反応は……」
残像を作り出したようにカインの輪郭がブレていた。
人のものとは思えぬほど黒い深淵の底のような『異物』。
彼の中から溢れ出したドス黒い瘴気が、物理的な質量を持って噴き出しているのだ。
それは、魔法などという理知的なものではない。ただの、災害。
「……殺す」
低く、地獄の底から響くような呟き。
カインが顔を上げた。
その瞳からは、理性の光が完全に消え失せていた。あるのは、虚無。
そして、その瞳の奥底に渦巻く、爆発的なエネルギーの奔流。
「っ……!?」
バルザックは息を飲んだ。
死ではない。
目の前の男から放たれているのは、圧倒的で、純粋すぎるほどの「生」のエネルギーだ。
あまりに濃密すぎて、触れるもの全てを焼き尽くし、存在を塗り潰してしまうほどの生命力の塊。
それは、病に侵され死を恐れるバルザックが、最も求めてやまない「永遠の命」の輝きに似ていた。
「ああ……なんて素敵なんだ」
恐怖と同時に、恍惚とした感情が湧き上がる。
これが、完成形なのか。私が求めていた賢者の石の、その先にある力なのか。
だが、その力は制御を失っている。
カインを中心にして、空間が歪み、地下霊廟の天井に亀裂が走り始めた。




