23話 おじさんと猫3
地下水道の最奥。
かつて大賢者の霊廟へと繋がっていたとされる区画に近づくにつれ、空気の淀みは濃密さを増していた。壁に張り付いた黒い粘液が、生き物のように脈動している。
「……おじさん、ストップ」
リザが鋭く声を上げ、足を止めた。彼女の瞳が、暗闇の中で忙しなく動く。
「ここから先、空気が違う。罠だらけだよ。床にも、壁にも、天井にも……びっしりと術式が埋め込まれてる」
「解除できるか」
「無理。複雑すぎる。一歩でも踏み込めば連鎖爆発する仕組みだね」
リザは顔をしかめた。だが、すぐにニヤリと不敵に笑う。
「でも、見えてるなら避けられる。私が安全なルートを指示するから、私の足跡をなぞって」
「ああ」
カインの結界ならトラップごときの魔法は防げる。
しかし、魔法の直撃は避けられても、この地下水道自体は崩壊する。
(ここは、リザに従うのが懸命だ。こんな地下深くで生き埋めはさすがに笑えん)
リザが慎重に足を踏み出す。
カインは無言でそれに続く。リザの背中は小さいが、その歩みには迷いがない。
彼女の『魔視』は、不可視の死の罠さえも明瞭な「色」として捉えているのだ。
「右に二歩。……次は大きく跨いで。そこ、センサーがあるから」
リザの指示通りに進むことで、二人は死の回廊を無傷で抜けていく。
順調だった。
だが、その順調さこそが、術者の狙いだった。
「……ん? 何だろ、あれ」
リザが目を細めた。通路の突き当たり。扉の前に、奇妙な「白い点」が浮いている。魔力の色ではない。もっと強烈な、何かの凝縮体。
「おじさん、あそこに変なのが……」
「……あれは……! 見るな!! リ……」
カインが言い切る前にリザがそれを凝視し、焦点を合わせた瞬間だった。その「点」が、弾けた。
カッッッ!!!!
音のない閃光。それは物理的な光ではない。
純粋な魔力の奔流が、視覚情報としてリザの網膜を焼き尽くす「魔力閃光」だった。
常人にはただの眩しい光。だが、魔力を「視て」しまうリザにとっては、太陽を至近距離で直視するごとき劇薬となる。
「あ゛……ッ!?」
リザの視界が、白一色に塗りつぶされた。激痛。
眼球の奥が焼け焦げるような熱さに襲われ、リザは悲鳴を上げてその場にうずくまった。
「ああああッッッ……!」
「チッ……!」
カインが駆け寄る。リザは両手で顔を覆い、ガタガタと震えていた。
「見えない……! 何も……! 真っ白で、痛い……! 痛いよっ!!!」
彼女にとって『魔視』は、路地裏で生き抜くための唯一の武器であり、アイデンティティだ。
それが失われた恐怖が、理性を消し飛ばす。
ズズズ……。
絶好の好機を逃すまいと、壁や床から泥人形たちが湧き出した。
さらに、通路の奥からは無数の火球や氷柱が放たれる。視力を奪い、混乱させたところを蜂の巣にする。狡猾な必殺の布陣。
「ひっ……!」
リザが敵の気配を感じ、錯乱して逃げようとして立ち上がる。
「動くな!! リザ!!」
カインの声が響くのと同時に、リザの体が強い力で引かれた。
温かい感触。カインがリザを抱き寄せ、自分のコートの中に庇ったのだ。
「見えていないのに下手に動くな。俺のそばにいろ、その方が戦いやすい」
不思議と、焼けるような痛みは和らいだ。
気のせいなのか、カインが何かしたのかはわからない。
だが確かに、リザはその痛みを遠くのものに感じた。
「おじさん……」
ドォォォォンッ!!
直後、殺到した魔法と泥人形の拳が、カインの背中に直撃した。爆炎と衝撃が二人を飲み込む。
「お、じさん……?」
リザはカインの胸の中で、息を止めた。死んだと思った。
だが、痛みはない。恐る恐る顔を上げると、カインは無表情のまま、飛来する魔法の雨の中に立っていた。
「……」
カインの周囲数センチで、全ての攻撃が弾け、霧散している。
『術式乖離』の結界。最強の盾は、リザごとその身を守り、傷一つ負っていなかった。
「お、じさん……私、……何にも見えないよ……」
リザがカインのシャツを握りしめ、震える声で訴える。
足手まといだ。目がなければ、自分はただの無力な子供。
カインの足を引っ張るだけの荷物。置いていかれる。見捨てられる。
そんな恐怖が喉を締め付ける。
だが、カインの手が、リザの頭にポンと置かれた。
「心配するな」
静かな声。そこには、焦りも、失望もなかった。
「お前はここまで、完璧な仕事をした。……今度は、俺がお前の目になってやる」
「え……?」
「耳を澄ませろ。俺の声だけを聞き、何が起きているのかをイメージするんだ」
カインはリザを抱えたまま、一歩踏み出した。
「右前方、泥人形三体。距離五メートル」
カインが左手を振るう。風の刃が走り、泥人形が両断される音がした。
「左、火球の射線。――消した」
今度は熱気が近づき、そしてフッと消滅した。
「正面、通路の奥。術者が潜んでいる。距離二十」
カインは、まるで散歩でもするように淡々と状況を告げながら、進んでいく。
リザには何も見えない。
けれど、カインの声が、暗闇の中に鮮明な「景色」を描き出していく。
敵の位置。攻撃の種類。
そして、それらが一方的に蹂躙されていく様が、手に取るように分かる。
(……すごい)
リザは震えが止まるのを感じた。
カインの腕の中にいれば、どんな地獄でも傷一つ付かない。
絶対的な安全圏。
それは、常に気を張り詰めて生きてきたリザが、初めて知る安らぎだった。
「……終わったぞ」
カインが足を止めた。
周囲の気配が消えている。敵は全滅したようだ。カインはリザを降ろすと、その目の前に手をかざした。
「じっとしていろ。治癒魔法は使えんが、熱を取り除くことはできる」
『冷却』
ひやりとした冷気が、リザの瞼を包み込む。
水魔法の霧と、風魔法の気化熱を利用した、優しいアイシング。
遠くにあった焼けるような痛みが、徐々に引いていく。
「……ん」
リザが恐る恐る目を開ける。
まだ視界はぼやけているが、うっすらと光が戻っていた。
目の前には、ぼんやりとだが心配そうに眉を寄せたカインの顔が見える。
「見えるか」
「……うん。ぼんやりだけど」
「網膜は焼けていない。そう錯覚するほどのダメージはあるようだが、要は一時的なショック状態だ。時間と共に視力も戻るはずだ」
カインは安堵の息を吐き、立ち上がった。
「立てるか。この先に元凶がいる」
差し出された手。リザはその大きな手を、両手でしっかりと握り返した。
「……うん。ごめんね……。迷惑かけて」
「別に気にしてない。それより……」
「……なに?」
「いや。なんでもない」
それより、お前が無事でよかった。
素直になれない不器用な男は、その言葉を口に出せなかった。
だが、人を観察し、敏感に心を察することのできるリザには、その言いかけた言葉がなにか、うっすらと分かっていた。
「輪郭がわかる程度には見えるから、行こう。カイン」
「……な……名前で呼ぶな。今まで通りおじさんでいい。いきなり気色の悪い」
「いきなりじゃないよ。私の名前を呼んでくれたら、私も名前で呼ぶって前に言ったじゃん! さっき……呼んでくれたじゃん……。……それに、前は名前で呼べって言ったくせになんなのさ?」
カインは言葉を返せない。
「もしかして、照れてんの?」
カインがリザの頭を小突く。
「いでっ!」
「……誰がお前みたいなガキに照れるか」
「……素直じゃないねぇ。ある程度おじさんになると、みんなそうなのかな?」
「……先に進むぞ」
「はいはい」
リザはカインの背中を見上げた。
もう、損得勘定も、借りを作る怖さもない。
この人の背中なら、どこまでだって追いかけられる。
路地裏を駆け回るだけだった野良猫が、初めて「飼い主」を――いや、「相棒」を見つけた瞬間だった。




