19話 おじさんと猫1
地下水道の空気は、地上よりもさらに淀んでいた。
カインとリザは、汚水に混じって流れる「黒い呪いの残滓」を遡るように、暗い通路を進んでいた。
足元には、汚水とは別に、清浄な水を運ぶための太い金属製の筒――配管が這っている。
「……ねえ、おじさん」
リザがその配管をペタペタと触りながら、感心したように声を上げた。
「この『スイドー』? ってシステムさぁ。大賢者が考えたんだって」
「……そうらしいな」
カインは足を止めず、短く相槌を打つ。
「凄いよね。こんな筒で水を通して、井戸から水を汲まなくても、こんなに簡単にみんな好きな時に清潔な水を飲めちゃうなんてさ」
リザは瞳を輝かせ、張り巡らされたパイプラインを見上げた。
「他にも、食べ物を腐らせない『レイゾウコ』とかも、今は結構一般的だけどそれも大賢者が考えたんだってー。……おじさん知ってた?」
「ああ」
カインは淡々と答えた。
――大賢者。
大昔、突拍子もない発想の発明品を作り出し、ヤクヒンと呼ばれる薬を生み出し、数々の知識で革命を起こした男。
魔法を「特権階級の兵器」ではなく「生活の道具」に変えようとしたその思想は、カインが目指した「無詠唱魔法(誰でも使える魔法)」の理念とも通じるものがある。
だが、今のカインにとって、それは過ぎ去った時代の残響でしかない。
「ふーん。ま、常識だもんね」
リザは意味深に笑い、カインの横顔を覗き込んだ。
「でもさ、おじさんって物知りだよね。ただの浮浪者にしては、魔法の理屈にも、こういう古い設備にも詳しすぎるし」
「……誰が浮浪者だ」
「へへ。……じゃあさ」
リザの声色が、不意に変わった。
無邪気な好奇心から、獲物を追い詰める狩人のそれへ。
「おじさんてさ。三強の『アトス』だったりする?」
唐突な問い。
地下道に流れる水の音だけが、やけに大きく響く。
だが、カインの歩調は乱れなかった。無視を決め込み、黙々と歩を進める。
その背中は、何も聞いていないかのように雄弁な沈黙を貫いている。
「無視? 感じ悪ー。あ、それは元からか」
リザはカインの隣に並び、楽しげに、けれど鋭く畳み掛ける。
「セレーナ様の名前を聞いてから分かりやすく動揺してたし、さっきもセレーナ様の気配をいち早く感じ取ったり、呼び捨てにしたり。……何より、その馬鹿げた強さもさー」
リザは指折り数えながら、状況証拠を突きつけてくる。
「普通の魔法士なら、泥人形の大群相手にあんな芸当できないよ。そもそも、大抵の魔法士は一種類の属性しか使えないし。優秀な人でも二種類が限界って言われてるのに、複数属性を息をするように使い分けて、しかも無詠唱。……教科書通りの『アトス』の特徴そのまんまじゃん」
カインは小さく息を吐き、視線を横に向けた。
「……もしそうなら、なんだと言うんだ?」
否定も肯定もしない。
ただ、その仮定の先にあるリザの意図を問う。それが、実質的な肯定であることを理解した上で。
「別に? ただ……」
リザは言葉を切り、悪戯っぽく笑った。
「なんだ」
「なんでもなーい。行こ」
リザはスキップするように駆け出し、カインを追い越していった。
その背中は、「答え合わせは済んだ」とでも言いたげに軽やかだ。
「……食えんガキだ」
カインは独りごちて、頭をガシガシとかいた。
正体を隠す気がないわけではない。だが、この鋭い少女の目を欺き続けるのは骨が折れる。
それに、リザの口ぶりには、カインを糾弾するような響きはなかった。
「国を捨てた裏切り者」への侮蔑ではなく、ただの純粋な興味と、どこか期待するような響き。
(……やれやれ)
カインは思考を切り替えた。
今は、目の前の敵に集中すべきだ。
地下道の奥、闇の向こうから、濃密な死の気配が漂ってくる。この街を蝕む呪いの核。それを操る術者が、すぐそこにいる。
「……おい、先行くな。死ぬぞ」
「平気平気! おじさんが守ってくれるんでしょ?」
「自分の身は自分で守れ」
「とか言って本当は私の騎士になりたいくせに〜」
「お前は何を言ってるんだ」
「ま、頼りにしてるよ! おじさん!」
リザは振り返りもせずに手を振った。
その信頼が、重くもあり、少しだけ心地よくもある。
カインは苦笑を噛み殺し、その小さな背中を追った。




