17話 見えない蜘蛛の巣
診療所の裏手に広がる路地裏は、表通りの喧騒とは無縁の静けさに包まれていた。
だが、その空気は表よりもさらに重く、澱んでいる。
カインは足を止め、コレットの胸元を見た。アズライトの栞には、微細な亀裂が走っている。
魔力の負荷に耐えきれず、限界が近い証拠だ。
「……引き返すぞ。まずは栞の修理だ。応急的に俺の魔法で処理をする。少し時間はかかるが……」
カインは踵を返そうとした。
だが、コレットはその場を動かなかった。
「嫌です」
短く、しかし強い拒絶。
彼女は真っ直ぐにカインを見つめ返した。
「栞が壊れれば、また私が魔獣を呼んでしまうかもしれません。それは怖いです。……でも」
コレットは、路地裏の奥でうずくまる病人の姿を視界の端に捉えていた。
「私一人の安全のために、今苦しんでいる人たちを見捨てることはできません。そんなことをして生き延びても、私は一生、自分を許せなくなります」
その瞳には、かつて「祈り」だけでは何も救えなかった過去への決別が宿っていた。
カインは数秒間、彼女と睨み合った後、大きく溜息を吐いて頭を掻いた。
「チッ。……リ……猫、案内しろ」
カインは諦めたように顎をしゃくった。
リザはニヤリと笑い、壁に手をついて街を見渡した。
「おっけー。……でもねおじさん、ちょっと厄介だよ」
リザの瞳が、怪しく輝く。
彼女の『魔視』には、おぞましい光景が映っていた。
「さっき『黒いヒル』って言ったけど、あれ……空から、降ってきてる」
リザが空を指差す。だが、そこには何も無い。ただの曇り空だ。
「なんにもないよ?」
「もっと高いところ。街の上空全体に、薄ーい膜みたいなのが張ってる。そこから黒い糸が無数に垂れ下がって、人々に突き刺さってるんだよ。まるで……」
「……蜘蛛の巣か」
カインが呟く。リザは頷いた。
「そう。街全体が、巨大な蜘蛛の巣に覆われてるみたい。……ねえおじさん、こんな大規模な術式、一人で維持できるもんなの?」
「いや、不可能だ」
カインは即答した。
オダイ・ジニは人口数万を抱える大都市だ。
その全域を覆うほどの結界を展開し、かつ数千人から同時に生命力を吸い上げるなど、個人の魔力容量では到底賄いきれない。
もしやるとすれば――
「……『支点』があるはずだ」
カインは鋭い視線で街を見回した。
「これほど大規模の術式なら、結界を支えるための杭が、街の要所要所に打ち込まれているはずだ。黒い糸が特に濃く集まっている場所を探せるか?」
「えっと……ちょっと待ってね」
リザは目を細め、街の色彩情報をフィルタリングしていく。
人々の生活マナ、建物の無機質なマナ、それらを取り払い、異質な「黒」だけを浮き彫りにする。
「……ある。あっちの方角、古井戸のあたり。それと、東の時計塔。西の墓地にも……うわ、全部で五箇所もあるよ」
「五芒星か。古典的だが、効果的な配置だ」
カインは冷笑した。
病気に見せかけた、大規模な儀式魔法。
この街の人間は、知らぬ間に巨大な魔法陣の上で生活させられているのだ。
「一番近いのは?」
「ここから二つ先の通りにある、共同井戸だね」
「行くぞ。現物を確認する」
共同井戸は、すでに封鎖されていた。
「汚染の疑いあり」という立て札が立てられ、人々は寄り付かない。
だが、リザの目には、そこからどす黒い瘴気が噴き出しているのが見えていた。
「……うげっ、臭っ。マナが腐ってるよ」
リザが鼻をつまむ。
カインは周囲を警戒しつつ、井戸の縁に手をかけた。
中を覗き込む。水面は黒く濁り、底の方から奇妙な振動音が響いている。
「コレット、離れていろ」
カインは指先を井戸に向けた。風の刃を形成し、水底にある「違和感」に向けて放つ。
バシュッ。
水が割れ、何か硬いものが切断される音がした。
次の瞬間、井戸の底から黒い石柱のようなものが浮き上がってきた。
表面にびっしりと不気味な呪文が刻まれた、人の背丈ほどもある杭だ。
「……これか」
カインはその杭を引き上げ、地面に転がした。
刻まれた文字を見た瞬間、カインの目が険しくなった。
「……古代語魔法か。随分と古い術式を引っ張り出してきたものだ」
「読めるの?」
「ああ。だがこれは、ロクなもんじゃない。『生命の譲渡』と『強制循環』。……やはり、この街の人間の命を吸って、どこかへ送るためのポンプだ」
カインは杭を蹴り飛ばした。
「この杭が、街の地下水脈に呪いを流し込んでいる。人々は水を飲み、あるいは水路の空気を吸うことで、体内に呪いの種を植え付けられる。……潜伏期間を経て発芽したのが、あの『黒いヒル』だ」
「そんな……。じゃあ、お水を使っちゃいけないんですか?」
コレットが青ざめる。
水はこの街の命綱だ。薬を作るにも、人々が生活するにも欠かせない。
「元を断たなきゃ意味がない。……残りの四箇所も同じような場所か?」
「うん。水路の合流点とか、地下水が湧く場所ばっかりだね」
「犯人は、この街の水源そのものを魔術的な回路として利用しているのか」
カインは空を見上げた。
見えない蜘蛛の巣。その糸を操る主は、おそらくこの五つの杭の中心点――いや、もっと深い場所に潜んでいる。
「……壊せますか?」
コレットが尋ねる。
カインは無言で右手を掲げた。
詠唱はない。
ただ、圧倒的な魔力の奔流が、掌に収束する。
「壊すだけなら簡単だ。だが、これを壊せば術者に感づかれる。追っ手が来るだろうな」
「構いません」
コレットは毅然と言った。
「相手が出てくるなら好都合です。……ですよね? カインさん」
「……少しは、俺のことをわかってきたようだな」
カインはニヤリと笑い、そして無慈悲に杭を粉砕した。
パァンッ!!
黒い石柱が弾け飛び、同時に空を覆っていた「見えない膜」の一部が揺らぎ、裂けるのをリザは見た。
「――始まったぞ」
カインが低く告げる。
「蜘蛛の巣を揺らしたんだ。主が出てくるか、あるいは……掃除屋が来るか」
その言葉に応えるように、路地裏の影がざわりと揺れた。
黒い泥のような不定形の何かが、地面から染み出し、形を成していく。
それは、街の自浄作用として仕掛けられた、自動防衛用の使い魔たちだった。
「……掃除屋の方か。猫、敵の核を探せ。コレット、隠れていろ」




