エピローグ
あれから、数年の月日が流れた。
大陸中央に位置する聖教自治区サン・テレジア。
かつて「神の眼」計画によって閉ざされ、歪んだ秩序に支配されていた白亜の都は今、大陸で最も活気ある自由都市へと生まれ変わろうとしていた。
街を覆っていた巨大な結界は撤廃され、他国との交易も盛んに行われている。
白一色だった街並みには、様々な国の色彩が混じり合い、人々の喧騒と笑顔が溢れていた。
聖騎士団の本部、その執務室では、今日も朝から怒号にも似た慌ただしい声が飛び交っている。
「団長! 西区画の復興支援資材が届きました! 確認をお願いします!」
「南門の警備隊より報告! 街道に出没していた魔獣の群れ、討伐完了とのことです!」
「了解しました。資材は第三倉庫へ。検品は二班に任せてください。南門の部隊には休息を。交代要員の手配は済んでいます」
書類の山に埋もれながら、的確に、そして淀みなく指示を飛ばす青年がいた。
黒髪の美青年、騎士団長シオン。
かつて迷い子のように頼りなかった少年の面影はなく、その背中は多くの部下と市民の生活を背負う、立派な指導者のものだった。
ペンを走らせる手は止まらない。目の前にあるのは膨大な決済書類と陳情書。
睡眠時間を削り、食事もそこそこに働き続ける彼は、周囲から「鉄人」とさえ呼ばれていた。
「……ふぅ」
ふと、ペンを置く。
シオンは凝り固まった肩を回し、窓の外を見た。
広場では、子供たちが歓声を上げて走り回っている。かつては「静粛」を強要され、息を潜めていた場所だ。
(……平和になったな)
感慨深く目を細める。
だが、これで終わりではない。かつての教団が犯した罪、そして自分自身が加担してしまった過ちは、一生かけても償いきれない。
この国を、誰もが胸を張って暮らせる場所にすること。
それが、残された自分の使命だ。
「お兄ちゃん、お茶淹れたよ。少し休んで?」
鈴のような声と共に、執務室の扉が開いた。
入ってきたのは、エプロン姿の少女――ノエルだ。
かつてガラスの棺の中で死にかけていた彼女は今、自分の足でしっかりと大地を踏みしめ、歩いている。透き通るようだった肌には健康的な赤みが差し、その笑顔は太陽のように明るい。
「ありがとう、ノエル。……助かるよ」
シオンは微笑み、妹が差し出したカップを受け取った。温かいハーブティーの香りが、張り詰めた神経を優しく解きほぐしてくれる。
「あんまり無理しないでね。リザさんが帰ってきた時、お兄ちゃんが倒れてたら、きっと怒られちゃうよ? この前だって怒られてたでしょ?」
ノエルが悪戯っぽくクスクスと笑う。その名前に、シオンは苦笑して頭をかいた。
「……そうだね。リザに合わせる顔がなくなってしまう」
「ふふ。今度はいつ帰ってくるかなぁ、リザさん」
「さあね。風のような人だから」
シオンは熱い茶を飲み干し、再びペンを握った。
その横顔には、もう迷いはない。ただ、未来を見据える強い光だけが宿っていた。
◇
場所は変わり、学術都市アレクサンドラ。
魔導技術の最先端を行くこの都市に、一軒の瀟洒な屋敷があった。
広い庭には手入れの行き届いた花壇があり、穏やかな午後の陽だまりの中で、一人の少女が遊んでいる。
「えいっ! いけーっ!」
赤い髪をツインテールにした少女――アイシャ。
彼女は小さな掌から、不器用ながらも可愛らしい「火の鳥」の形をした魔法を生み出し、空へと飛ばしていた。
母親譲りの魔力の才。小さな鳥はパタパタと翼をはためかせ、数メートル飛んではポスリと消える。
「あーあ、また消えちゃった」
アイシャが頬を膨らませた時だった。
「ねえ、あなた」
ふいに、垣根の向こうから涼やかな声がかかった。
「ん? どちらさま?」
アイシャが顔を上げる。
そこに立っていたのは、青いリボンがついた、つばの大きな真っ白な帽子を被った女性だった。
上質な白いワンピースに身を包み、手には旅行鞄を持っている。帽子で目元は見えないが、その口元は優しく微笑んでいた。
「お母さんの昔のお友達なの。お母さん、いるかしら?」
「お友達? ママに?」
アイシャは小首を傾げた。
彼女の知る限り、母親はいつも研究室に篭っているか、家で怖い顔をしてフライパンを振るっているかだ。訪ねてくる友人など、見たことがない。
でも、このお姉さんからは、なんだか懐かしい匂いがする。
アイシャは屋敷に向かって、ありったけの大声で叫んだ。
「ママー! お友達来てるよー!!」
ドタドタドタッ!
屋敷の中から、慌ただしい足音が近づいてくる。
「……友達? 私に友達なんて……。どうせまた変な勧誘か、学会の連中だろう」
ぶっきらぼうな声と共に、玄関の扉が開いた。
現れたのは、エプロン姿のセレーナだ。
かつて「紅蓮の魔女」と恐れられた彼女も、今は手には魔導書の代わりにフライパンを、腰にはお玉をぶら下げている。主婦業と研究の両立は、ドラゴン退治よりも骨が折れるらしい。
セレーナは門の前に立つ人物を見て、怪訝そうに眉をひそめた。
「……誰だ? 勧誘なら間に合ってるぞ。帰ってくれ」
その日は、風の強い日だった。
一陣の海風が吹き抜け、庭の木々をざわめかせる。
ヒュウッ……!
風が、女性の帽子を押さえる手をすり抜けていく。
つばの大きな真っ白な帽子がわずかに浮き上がり――その下から、黄金の糸のような金髪が溢れ出した。
陽光を受けて輝く、まばゆい金色の髪。
そして、帽子の隙間から覗く、宝石のような銀色の瞳。
時が止まった。
セレーナの目が、極限まで見開かれる。
持っていたフライパンが手から滑り落ち、カランカランと乾いた音を立てて石畳に転がった。
「えへ……久しぶり、セレーナ」
止まっていた誰かの時計が、再び動き出した気がした。
◇
そして。
大陸のどこか。名もなき街道を、一台の馬車がのんびりと進んでいた。
「あーあ、また野宿かぁ。コレット、今日の夕飯どうするー?」
御者台で手綱を握るリザが、大きな欠伸混じりに尋ねる。
その背丈は伸び、橙色の髪は風になびいている。
かつてのような危うさは消え、その横顔はすっかり大人びて、頼もしさが増していた。手綱捌きも堂々としたものだ。
「そうだね……。近くでキノコが採れそうだったから、スープにしようか」
幌の中から、コレットが顔を出した。
少女から大人の女性へと成長したその顔立ちは美しく、落ち着いた雰囲気を纏っている。
その胸元には、水晶に閉じ込められた青い花――【アズライトの栞】が、旅のお守りのように揺れている。
「またスープ? 飽きたよ〜」
リザが振り返って笑う。
「ふふ。一番温まるから。……それに、貧乏旅なんだから、節約節約!」
「まーね。お金ないもんな〜。またドラゴン退治でも請け負う?」
「私達の旅はそういうのじゃなくていいのよ。小さなことで困っている人を、ささやかに幸せに出来れば」
コレットは微笑み、流れる景色に目をやった。
どこまでも広がる草原。遠くに見える山脈。
世界はこんなにも広く、美しい。
コレットは空を見上げた。
雲ひとつない青空。風が吹き、白い雲が流れていく。
その風の中に、懐かしい気配を感じた気がした。
『コレット、風向きが変わったよ』
光の粒子が集まり、桜色の髪をした小さな妖精――ルビィがコレットの肩に座る。
「気持ちのいい風。行こう! リザ!」
コレットは前を向いた。
悲しみはもうない。
あるのは、彼が愛し、守り抜いたこの世界を、自分の足で歩いていくという決意だけ。
「了解! 風の向くまま、気の向くままに! 出発だー!!」
リザが鞭を振るう。馬車が軽快な車輪の音を立てて、荒野を走り出す。
悲しみも、喜びも、喪失も、希望も。
全てを抱きしめて、彼女たちの旅は続いていく。
終わりのない地平線の向こうへ。
二人の女性が紡ぐ軌跡は、どこまでも続いていった。
【断章のご案内】
本編はエピローグで終わりとなりますが、この後、物語の根幹の秘密に迫る「断章」がございます。
断章を読むことで、登場人物たちの隠された運命や、世界の真実に対する理解がより深まります。ぜひ、この物語を深く愛してくださった方は、最後のページまでお付き合いください。
重ねて、応援本当にありがとうございました。




