155話 咎人とアズライト
日が沈み、夜が訪れたアズライトの丘。
満天の星と、静かな月明かりが、一面の青い花畑を照らしている。
そこには、何も残されていなかった。
カイン・アトスという男の肉体も、愛用していたコートも、骨の欠片さえも。
全ては光となり、風に乗って世界の彼方へと還っていった。
「……うぅ……カイン……」
リザは泣き疲れ、その場に崩れ落ちるようにして眠ってしまっていた。
夢の中でも泣いているのか、時折しゃくり上げるように小さな肩が震えている。
コレットは、そんなリザの頭を膝に乗せ、優しく髪を撫でていた。
彼女の周りには、ルビィだけでなく、森や海、風の精霊たちが無数に集まっていた。
蛍火のような、あるいは星屑のような光の粒子が、波の音に合わせてゆらゆらと漂っている。
青い花畑の上に広がる、光の海。
それは、世界がカインの旅立ちを静かに祝福しているかのような、息を呑むほど幻想的な光景だった。
「……ねんねん、ころり……」
コレットは、小さく歌い始めた。
かつて、眠れない夜に母が歌ってくれた子守唄。
あるいは、遠い記憶の中で、誰かが誰かのために歌った鎮魂の歌。
透き通るような歌声が、夜風に乗って流れる。
精霊たちがそれに合わせ、瞬き、輪を描いて舞う。
光の旋律が、傷ついた二人の心を柔らかい毛布のように包み込んでいく。
リザの寝顔が、少しずつ安らかになっていく。
彼女の肌には、もう痛々しい傷痕はない。カインが最期に、その身を賭して消し去ってくれたから。
今、リザを温めているのは、彼が残した「愛された記憶」そのものだ。
(……カインさん)
コレットは歌いながら、胸元に手を当てた。
そこには、水晶の中に青いアズライトの花を閉じ込めたペンダント――【アズライトの栞】がある。
かつては魔力を放ち、脈動していたそれは今、静かな宝石に戻っていた。
けれど、冷たくはない。
(……温かい)
手のひらに伝わる、じんわりとした熱。
それがコレット自身の魔力によるものなのか、それとも別の理由なのかは分からない。
もしそうだとしても、理由なんてどうでもよかった。
ただ、そこにカインを感じた気がしたから。
不器用で、優しくて、誰よりも温かかったあの人の体温が、今もここにある気がしたから。
「……おやすみなさい」
歌声が、波音に溶けていく。
コレットもまた、リザの髪を撫でながら、深い眠りの底へと落ちていった。
夢の中でも、彼に会えることを願って。
◇
チチチ……。
小鳥のさえずりと、眩しい光で目が覚めた。
東の水平線から朝日が昇り、アズライトの花弁についた朝露を宝石のように輝かせている。
『……コレット。起きろ』
ふと、懐かしい声がした気がした。
低くて、少し不機嫌そうで、けれど安心する声。
「……っ! カインさん!?」
コレットはパッと横を向いた。
けれど。
そこには、誰もいなかった。
ただ、アズライトの花が風に揺れ、咲き誇っているだけ。
「……」
コレットは、胸元の栞をギュッと握りしめた。
幻聴だったのかもしれない。
でも、寂しくはなかった。
手の中にある栞が、そしてこの胸の鼓動が、彼が確かにここにいたことを教えてくれている。
コレットは、燃えるような朝焼けを見つめた。
空と海が溶け合う、始まりの色。
「……綺麗……」
自然と、言葉が零れた。
「……ん……」
膝の上で、リザが身じろぎした。
彼女は重い瞼を開け、キョロキョロと周囲を見回した。カインの姿を探して。
そして、誰もいない空間を見て、静かに目を伏せた。
「……リザちゃん」
コレットが声をかける。
リザは顔を上げず、ただ唇を噛み締めていた。
泣かないと決めたのに、また涙が出そうになるのを堪えているのだ。
コレットはゆっくりと立ち上がった。
スカートについた花びらを払い、海風を吸い込む。
そして、うずくまるリザに向かって、手を差し出した。
「リザちゃん……?」
リザが顔を上げる。
逆光の中で微笑むコレットの姿は、とても強く、そして優しかった。
「……帰ろっか」
その言葉に、リザの瞳が揺れる。
帰る場所なんて、もうないと思っていた。
でも、差し出された手がある。
握り返してくれる、家族の手が。
リザは袖で顔をこすり、コレットの手を強く握り返した。
「……うん……帰ろう……みんなで……」
二人は並んで歩き出した。
墓標は作らない。
彼はここに縛り付けられるような人ではないし、私たちの心の中に、確かな形として残っているから。
ザァァァッ……!
潮騒に駆り立てられるように、丘の上の風が強まる。
一面のアズライトの花びらが、一斉に舞い上がった。
無数の青い花弁が、風に乗って空高く舞い上がっていく。
それはまるで、天へと還った魂からの、青い祝福のようだった。
二人の少女は、身を寄せ合うようにして手を繋ぎ、花吹雪の中を歩いていく。
その足取りは、もう迷っていない。
さようなら。
そして、行ってらっしゃい。
かけがえのない、大好きな人。




