154話 アズライトの咲き誇る丘で
潮騒が、耳の奥で優しく響いている。
海からの風が、丘一面に咲き誇るアズライトの花々を揺らし、さざ波のような音を奏でていた。
リザとカインのやり取りを、隣に座って黙って聞いていたコレット。
彼女はただ、これまでの全てを思い返すように、海のその向こうのはるか遠くを眺めていた。
泥だらけで出会ったあの日から、今日この瞬間までの旅路。
その一瞬一瞬が、宝石のように輝いている。
「コレット」
カインの呼ぶ声に、少しだけ肩をビクつかせる。
覚悟はしていた。けれど、心臓が早鐘を打つ。
カインがこれから、自分に別れの言葉を言うことが分かっているから。
「はい」
コレットは震える唇で答えた。
カインの手は、変わらずコレットの手を握っている。
ひび割れ、光が漏れ出すその手。
かつては大きく、温かく、絶対的な安心感を与えてくれたその手は今、硝子細工のように脆く、熱を失いつつあった。
リザは泣きべそをかきながらも、カインの胸に顔を埋め、その鼓動を――消えゆく命のリズムを、必死に記憶に刻み込もうとしている。
「……出会った日のこと、覚えてるか?」
カインが静かに問いかける。
視線は海に向けられたままだが、その瞳にはコレットの姿が映っているようだった。
「はい」
忘れるはずがない。
全てが始まった、運命の日。
「……あの日みたいだな。俺はボロボロで……アズライトが咲いていて……」
「はい」
あの日も、カインさんは傷つき、倒れていた。
そして、私が手を伸ばした。
世界でたった一人、私を見つけてくれた人。
「……お前は……凄い。強くなった」
カインの言葉が、潮風に乗って届く。
師からの、そして守り手からの、最上級の賛辞。
「はい」
「でも……お前は今でも……出会ったあの時のままのコレットだ」
「……はい……」
カインは息を吐き、自らの内側を吐露し始めた。
「……俺には心がなかった。人間としての形を、師匠から与えられ、人間になろうと必死に生きた」
「15年前、少しだけ人間になれた気がした。けれど、それからの15年間で、その全てが、ボロボロと剥がれ落ちていた。何も持ってない空っぽの俺に」
フレデリカを失い、理想を失い、ただ罪だけを背負って歩いた空虚な日々。
咎人としての巡礼。
そんな乾ききった荒野に、一滴の雫が落ちた。
「……はい……」
コレットの涙が、頬を伝い、握り合う手に落ちる。
「……お前が、俺に心をくれた。正直なところ……心というものが何なのか、ハッキリとは分からない」
カインは、自身の胸――ひび割れ、眩い光が溢れ出そうになっているその場所を、空いている手で押さえた。
痛いほどに脈打ち、熱く、苦しく、そして愛おしい感覚。
「でも、きっと、これが心なんだろう」
「俺は……お前と、離れたくない」
「……」
コレットの喉が詰まる。
いつも強気で、一人で何でも背負い込んでいたカインが。
最期の瞬間に漏らした、子供のような本音。
「お前を、愛してる」
「……」
世界で一番、聞きたかった言葉。
そして、世界で一番、切ない言葉。
コレットの視界が涙で滲み、青い花畑が揺らぐ。
カインの手のひらから、感覚が消えていくのが分かった。
指先から炭化し、光の粒子となって風にほどけた。
時間は、もうない。
「……凄く、怖いんだ。消えて行ってるこの体が」
「お前の……その優しい琥珀色の瞳を見られなくなるのが。声を聞けなくなるのが」
「………」
コレットは、握り返す手にありったけの力を込めた。
ここにいます。
私はここにいます。
あなたの瞳に、私が映っている限り、私はあなたのものです。
「……コレット、お願いがあるんだ」
「はい」
カインが、懇願するようにコレットを見つめた。
その瞳は、崩壊の光の中で、かつてないほど澄んでいて、優しかった。
「……呼び捨てで呼んで欲しい。最後に……」
「………」
「……俺が……フレデリカにしてやれなかった事だ」
「こんな気持ちだったんだな……。愛している人に……ただ、名前を呼んで欲しいって……」
「…………」
「コレッ……」
コレットは、カインの言葉を遮るように身を乗り出した。
そして、光となって消えかけているカインの唇に、そっと自分の唇を重ねた。
キス。
冷たく、乾いていて、けれど魂が震えるほど温かい口づけ。
崩壊する魔力の奔流が、二人の周りで光の渦となって舞い上がる。
カインは目を見開いたまま、その感触を受け入れた。
「……」
「カイン。愛しています」
「……」
時が止まった。
カインの瞳から、ボロボロと涙がこぼれ落ちる。
生涯で流したどの涙よりも、美しく、透明な雫。
――ああ……。
――そっか……。
――こんなに……嬉しいんだ……。
「ありがとう」
カインは、大粒の涙を流しながら、子供のように、そして誰よりも幸せそうに、満面の笑みをコレットに向けた。
それが、彼がこの世界に残した、最後の表情だった。
「……っ……カイン!!」
コレットが、たまらずカインに抱きつこうと腕を伸ばす。
指先が、彼の頬に触れようとした、その瞬間。
音もなく、カインの全てが、弾けた。
肉体も、骨も。
全てが無数の光の粒となって、宙へと四散した。
コレットの腕は空を切り、その勢いのまま、彼女はアズライトの花畑にその身を投げ出した。
誰もいない。
抱きしめるべき温もりは、もうどこにもない。
ただ、青い花々が、彼女を受け止めただけだった。
「ああああああああああああああああ!!!!!」
リザの絶叫が、丘に響き渡る。
カインの胸に顔を埋めていたはずの彼女は、アズライトの花畑の上に座って、何もない空間に向かって、子供のように大声で泣き叫んでいた。
失ったものの大きさに、世界が震えるような慟哭。
コレットは、アズライトに顔を埋めたまま、動くことができない。
指先が、土を掴む。
涙が地面に染み込み、青い花弁を濡らす。
爽やかな海風が吹き抜けた。
風は、アズライトの花弁を巻き上げ、そしてカインだった光の粒たちを優しく攫っていく。
キラキラと輝く光の帯は、螺旋を描きながら天へと昇り、そして世界の彼方へと舞い散っていった。
それは、世界を救わないと言った咎人が、最後に世界へ還した、最も美しい奇跡の色だった。




