153話 おじさんと猫5
丘の上、大樹の根元。
カインは静かに海を眺めていた。隣ではコレットが、カインの手をそっと握りしめている。
そしてカインのその膝の上には、リザがちょこんと座っている。
まるで幼い子供をあやすように、カインは震える手でリザの橙色の髪を撫でていた。
「……カイン?」
リザが不安そうに見上げる。
不安げに見上げるリザの、服の隙間。カインの視線は、そこに刻まれた古い傷痕に向けられた。彼女が孤独に生き抜いてきた過酷な日々の証。
「……リザ。お前はいつも、元気いっぱいだったよな」
カインが懐かしむように呟く。
「なにそれ? なんかお別れの言葉みたいでイヤ!」
むくれるリザに、カインは優しく首を横に振った。
「いつも、お前のその明るさとハチャメチャ具合に救われてた。……正直、お前がいなきゃこの旅はとっくの昔に破綻してた。……お前が、俺たちの楔だったんだ」
バラバラになりそうな時も、沈みそうな時も、リザの無邪気な声が一行を繋ぎ止めてきた。
「……お礼を言うのは、私だよ」
リザが俯く。
「私さ……ずっと言えなかったことあるんだ……。私ね……昔……」
親に傷つけられ、逃げ出し、泥水をすすって生きてきた過去。汚いこともした。誰も信じられなかった。
その暗い過去を告白しようとしたリザの口を、カインの人差し指がそっと塞いだ。
「言わなくていいよ」
「でも……」
「お前はそんなこと……もうとっくに乗り越えてる」
カインはリザの肩を抱き寄せた。
「それに……『それ』は俺が持って行ってやる」
「え……?」
カインが、膝の上に座っているリザを思い切り抱きしめた。
身体が軋むほど、強く。
「い……痛いってば……」
カインの身体は崩壊を続けている。皮膚の亀裂から立ち上る光の粒子が、二人を包み込むように幻想的に舞い上がった。
そして、その光の粒ひとつひとつが、リザの肌に触れ、染み込んでいく。
古い傷痕が、光に溶けて消えていく。痛みも、恐怖も、孤独な記憶も、すべてカインの光が洗い流していく。
「カイン……」
リザの目から、涙が溢れた。
汚れた過去を、この人が全部連れて行ってくれる。
「……ありがとう。大好きなリザ。……俺と、出会ってくれてありがとう」
カインの声が震えていた。
その言葉が、リザの中で張り詰めていた最後の堤防を決壊させた。
「……」
強気に振舞っていた少女の顔がくしゃくしゃに歪む。
「やだぁ……やだ……もっと……ずっと……一緒にいたいよぉ……」
リザはカインの胸に顔を埋め、子供のように泣きじゃくった。
「もっと……撫でてよ……抱きしめてよ……ねぇ……カイン……おじさん……」
おじさん。
初めて出会った時、憎まれ口で呼んだ呼び名。
でも今は、世界で一番温かい、家族の呼び名。
カインの瞳からも、静かに涙がこぼれ落ちる。
彼はリザの背中を、壊れ物を扱うように優しく撫で続けた。
「お前はきっと、いい女になるんだろうな。優しくて、人の痛みがわかる……そんなお前を、俺も隣で見ていたかった」
成長した姿を、隣で見たかった。花嫁姿を、父親のような気分で見たかった。
叶わない未来が、切なくて愛おしい。
リザがカインのシャツを強く握りしめる。
「やだ……やだ……大好き……大好き……大好き……」
「……コレットの事を、頼むな」
カインは涙を堪え、最後の願いを託した。
「お前にしか頼めない。これは、超重要ミッションだ」
「……カイン……」
「リザ……」
リザは顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃの顔で、けれど精一杯の意思を込めて、カインを見つめた。
「……いつか……私が誰かと結婚したらさ……子供ができたらさ……」
嗚咽交じりの声で、未来の約束を紡ぐ。
「カインって……名前付けるからね。そしたらその時……戻ってきて……生まれ変わりしてきて……コレットみたいに……」
それは、遠い未来への招待状。また会うための、ささやかな願い。
カインは破顔した。この世の未練など吹き飛ぶほどの、最高の笑顔で。
「……ああ。そうなれたら……最高に幸せだろうな」
ふいにカインは海を眺め、脳裏にあの日の記憶を呼び起こす。リザを仲間に迎えた、あの始まりの瞬間を。
『高くつくよ、私のガイドは!』
『アホか。お前は借金を払う側だろうが』
『そんなのすぐ帳消しになるって! 私は凄いから!』
カインは愛おしい我が子を見つめるような瞳で、リザの頬を優しく掬い上げた。
「リザ」
「……なに?」
「お前は確かに、値千金だったよ」
驚きに目を見開くリザの額に、彼はそっと唇を寄せた。
「これが、ガイドの報酬だ」
リザの涙はまだ止まらない。
けれどその一瞬、二人の時間は確かに止まっていた。
永遠にも似た、一生分の心が結ばれる尊い時間が、そこには流れていた。




