152話 崩れゆく器
聖教自治区での戦いから数日。
カインたちを乗せた馬車は、大陸の海岸線沿いの街道をのんびりと進んでいた。
戦いの傷も癒え始め、窓から入る海風が心地よい。
平和な旅路。
だが、その平穏は、薄氷の上に成り立つ脆いものだった。
「見て見てカイン! 海だよ! 海ってさ! いつ見てもテンション上がんない!?」
御者台に座るリザが、興奮して振り返る。
幌の中で座っていたカインは、微かに口元を緩めた。
「ああ。いい眺めだ」
カインの声は、以前より少し掠れていた。
彼は膝の上に置いた自分の手を見つめる。手袋の隙間から覗く皮膚に、陶器のひび割れのような亀裂が走っている。血は出ていない。
代わりに、裂け目からは淡い金色の光――特異点のエネルギーが漏れ出していた。
(……そろそろか)
カインは悟っていた。
ソロンが施した「排出口」は、あくまで一時的な処置に過ぎない。ギデオンとの戦いで限界を超えて力を振るった代償。
器である「カインという肉体」が、内側からの圧力に耐えきれず、崩壊を始めているのだ。
「カインさん? お水、飲みますか?」
隣に座るコレットが、心配そうに顔を覗き込む。
カインは慌てて手を隠し、平静を装った。
「ああ、頼む」
コレットから水筒を受け取る。だが、その指先が触れ合った瞬間、コレットが息を呑んだ。
「!」
「……どうした?」
「カインさん、手が……熱いです。すごく……」
コレットが強引にカインの手袋を外そうとする。
カインは止めようとしたが、力が、入らなかった。
手袋が外れ、露わになった手の甲。
そこには、蜘蛛の巣状に広がる亀裂と、そこから立ち上る光の粒子があった。
「……なに、これ……」
コレットの声が震える。ただの怪我じゃない。体が、光になって解けかけている。
「カイン! どうしたの!?」
異変に気づいたリザが、馬車を止めて幌の中に飛び込んでくる。カインの腕を見て、リザもまた絶句した。
「……悪い」
カインは静かに告げた。
痛みはない。ただ、体が羽毛のように軽くなっていく感覚がある。重力という鎖から解き放たれ、本来あるべき「場所」へ還ろうとする引力。
「……ソロンの爺さんが言っていた通りだ。俺の時間は、もう残っていない」
「そんな……! だって、手術は成功したんじゃ……!」
「延命だ。……だが、俺は満足している。この力で、お前たちを守れたんだからな」
カインは優しく笑った。
それは、死を覚悟した者の諦めではなく、役割を全うした者の充足感だった。
「……嫌だよ」
リザがカインに抱きつく。その体は、驚くほど熱く、そして儚かった。
「まだ旅をするんでしょ!? 風の向くまま行くって言ったじゃん! 嘘つき!」
「……悪いな。ここが、風の止まり木らしい」
カインはリザの頭を撫で、そしてコレットを見た。
コレットは泣いていなかった。
ただ、唇を噛み締め、カインの手を両手で包み込み、精一杯の治癒魔法をかけている。光が漏れるのを、その手で塞ごうとするかのように。
「無駄だ、コレット」
「無駄じゃありません……! 少しでも……一秒でも長く……!」
「……ありがとう。だが、もう十分だ」
カインは窓の外を見た。
街道の脇に、小高い丘がある。
そこには、青い花――アズライトが一面に咲き誇り、その向こうに青い海が広がっていた。
「……綺麗な場所だな」
カインが呟く。最期の場所に相応しい。
「……あそこで、少し休ませてくれ」
カインの言葉に、二人の少女は顔を見合わせた。
拒否することはできなかった。彼の命の灯火が、もう消えようとしていることを、肌で感じてしまったから。
「……うん。行こう、カイン」
リザが涙を拭い、手を貸す。コレットも反対側を支える。
三人は馬車を降り、青い花が咲く丘へとゆっくりと歩き出した。カインの足跡が、光の粒子となって風に溶けていく。
「……重くないか?」
「重くないですよ。……カインさんは、いつだって私達を支えてくれたんですから」
コレットが気丈に振る舞う。
丘の上の大樹。海を見渡せる特等席。
そこが、長い旅の終着点。
カインは樹の根元に腰を下ろし、深く息を吐いた。
海の青と、花の青。かつてコレットに贈った栞と同じ色。
「……いい風だ」
カインは目を細めた。
崩壊が進む。指先の感覚が消え、視界が白く滲み始める。
けれど、不思議と怖くはなかった。隣には、愛する家族たちがいるのだから。




