142話 揺らぐ信仰
白亜の塔、最上階。
地下施設での出来事から数時間が経過し、窓の外は夜の帳に包まれていた。
部屋には、重苦しい沈黙が満ちている。
シオンは部屋の隅で椅子に座り、俯いていた。その手は組まれたまま、祈るように震えている。
彼の脳裏には、地下で見た光景――ガラスケースの中で眠る妹と、リザの悲痛な叫びが焼き付いて離れなかった。
『騙されてるんだよ! よく見て! この子の命、もう空っぽだよ!』
リザの声が、鼓膜の奥で反響する。
ギデオンは「幻覚だ」と言った。枢機卿は「治療だ」と言った。
それを信じたい。信じなければ、自分が今までしてきたことの全てが、妹を殺すための行為だったことになってしまう。
そんな絶望に、耐えられるはずがない。
「……シオン」
静寂を破ったのは、ベッドに腰掛けていたリザだった。
彼女の声は穏やかだった。責めるような響きはない。
シオンが顔を上げる。その表情は、迷い子のように頼りなかった。
「……なんですか」
「明日、儀式なんでしょ?」
「……はい。正午に、大広場で」
「そっか」
リザは窓の外、街の灯りを見つめた。
煌びやかな夜景。だがその光の一つ一つが、誰かの犠牲の上に成り立っていることを、今の彼女は知っている。
「……ねえ、シオン。もし明日、私が儀式で死ぬとしても、妹さんが助かるなら、それでいいって思ってる?」
「ッ……!」
シオンが息を呑む。核心を突く問い。
「そんなこと……! 儀式は、あなたを殺すものではありません! ただ、あなたの力を借りて、世界を平和にするための……」
「嘘だね」
リザは寂しげに笑って、首を横に振った。
「私の『魔視』は誤魔化せないよ。あの装置も、明日の儀式も……全部、誰かを犠牲にして動くものだ。あんたも、本当は分かってるんでしょ?」
「……僕は……」
シオンは言葉を詰まらせた。
分かっている。心のどこかで、ずっと違和感を抱いていた。
ノエルの顔色が良くならないこと。任務で連れ去った人々が二度と帰ってこないこと。ギデオンの瞳にある、冷たい虚無。
見て見ぬふりをしてきた「綻び」を、リザは容赦なく突きつけてくる。
「……僕は、騎士です。命令に従うのが仕事です」
シオンは逃げるように言った。それは自分自身への言い訳だった。
リザはベッドから降り、シオンの前に立った。
そして、彼の手を――震える両手を、そっと包み込んだ。
「……温かいね」
「……え?」
「あんたの手、温かいよ。……人殺しの手なんかじゃない」
リザはシオンの瞳を覗き込んだ。茜色には光っていない、ただの少女の瞳。
「私は信じてるよ。あんたは、間違わないって」
「……どうして。僕はあなたを攫ったのに。酷いことをしたのに」
「だって、泣いてたもん」
リザは悪戯っぽく笑った。
「雨の日も、地下室でも。……誰かのために泣ける人が、悪い人なわけないじゃん」
シオンの目から、一筋の涙が零れ落ちた。
張り詰めていた心が、彼女の言葉で解けていく。
救われたかったのは、妹だけではない。自分自身も、誰かに「間違っていない」と言ってほしかったのではなく、「辛かったね」と認めてほしかったのだ。
「……リザさん」
「明日、楽しみにしてるね。……私のヒーローが、助けに来てくれるのを」
リザは意味深に言った。
それはカインのことかもしれない。あるいは、目の前の少年への、精一杯の願いかもしれない。
シオンは涙を拭い、立ち上がった。
その顔には、先ほどまでの迷いはなかった。
答えが出たわけではない。だが、自分が「何」を見るべきかは、分かった気がした。
「……おやすみなさい、リザさん」
シオンは深く一礼し、部屋を出て行った。
扉が閉まる。その背中は、来た時よりも少しだけ、大きく見えた。
◇
一方、地下のアジト。
カインたちは、ザックが広げた都市の設計図を囲んでいた。
「決行は明日正午。……いいな?」
カインが全員を見回す。コレット、セレーナ、ザック。頼れる仲間たちが、力強く頷く。
「正面から叩き潰す」
カインの拳が、机上の地図――大聖堂の印を強く叩いた。
魔力はない。
だが、その瞳に宿る闘志は、かつての「三強」時代よりも熱く燃え上がっていた。
夜が明ければ、決戦だ。




