102話 結ばれた髪紐
ガゼボの中、静寂が少しだけ色を変える。
エレナはカップを置き、どこか悪戯っぽい、けれど真剣な眼差しでカインを見つめた。
「あの……さ。アトスは……コレットのこと、どう思ってるの?」
唐突な問いかけ。
カインは少しだけ目を丸くしたが、すぐにいつもの仏頂面に戻り、迷いなく答えた。
「……優しくて、思いやりのあるいい子だ」
「……」
「……」
「……な、なんだ?」
カインが怪訝そうに眉を寄せる。エレナは身を乗り出し、じーっとカインの顔を見つめていた。まるで、言葉の裏にある「何か」を探すように。
「えっ? そ、それだけ? 続きを待ってたんだけど……」
「続き? 答えただろう」
カインは心底不思議そうに言った。
嘘も偽りもない。彼にとってコレットは、守るべき庇護対象であり、尊敬すべき相棒であり、そして「いい子」なのだ。
それ以上の修飾語を、今の彼は持っていない。
「……なるほど……こりゃ……コレットも大変だわ……」
エレナは深い、深いため息をついた。
鈍感、という言葉では生温い。この男の恋愛回路は、15年前から完全に焼き切れたままだ。
「?」
カインが首を傾げる。
エレナは、ふわりと立ち上がった。
後ろで手を組み、スカートと金色の髪をなびかせながら、カインの周りをゆっくりと歩く。
「コレットってさ、いい子だよね。誰に対しても優しくて、礼儀正しくて、素直で」
「そうだな」
カインが頷く。その横顔が、自然と綻んだ。
そこには、少しの負の感情もない。過去の罪悪感も、咎人としての重圧もない。
ただ純粋に、一人の少女の成長を眩しく思い、慈しむような、温かな想い。
「……私は、アトスにそんな顔させられなかったな」
エレナが、ボソリと呟いた。
かつて彼に向けた愛。彼が向けてくれた忠誠。
そこには常に、「王女と騎士」という壁と、滅びゆく国の悲壮感が漂っていた。
こんなふうに、ただ穏やかに、陽だまりのような顔で笑い合うことは、できなかった。
「ん? 何だ?」
「なんでもないっ。聞こえてないなら、聞いてないあなたが悪いっ」
エレナはそう言って、無邪気な笑顔で振り返ると、カインの鼻先を指でツンと弾いた。
「……!」
カインが驚いてのけ反る。エレナはクスクスと笑い、そして再び空を見上げた。
「……15年てさ。すごーく……長いよね」
「……ああ」
カインもまた、視線を遠くへ投げた。
長い時間だった。少女が大人になり、国が滅び、世界が変わるには十分な時間。
「あ。知ってる? セレーナ! 結婚したんだって! ジークがこっそり調べて教えてくれたの!」
エレナの声が弾む。
親友の幸せなニュース。それは、逃亡生活の中での数少ない光だった。
「知ってる。なんなら旦那と子供にも会った」
「ほんと!? どんな人だった!?」
エレナが食い気味に、ずいっとカインに顔を近づける。
「いい男だった。……娘はあいつに似て、生意気なやつだったが。目つきが悪いから気を付けろと言ってきた」
カインは、学術都市アレクサンドラで出会った赤い髪の少女――アイシャの顔を思い浮かべて苦笑した。
母親譲りの勝ち気さと、父親譲りの芯の強さ。
「ぷっ。なにそれ! 会ってみたいなぁ……」
エレナが空を見上げる。
精霊の光が瞬き、星空よりも美しく、幻想的な空。
その彼方に、親友がいる。
「……会いたい……」
ぽつりと溢れた本音。
エレナの後ろ姿を見て、カインは目を伏せた。
彼女が抱えている罪悪感の深さを、カインは誰よりも理解していたからだ。
「会いたいなら、会いに行けばいい。あいつは、大体学術都市アレクサンドラにいるはずだ。そこに行けば会えるだろう」
「会えないよ」
エレナは即答した。
「会っちゃいけない。私が……会いに行く資格なんてないよ」
彼女は振り返らない。
後ろで組んだ手が、白くなるほど強く握られ、微かに震えている。
「あいつは喜ぶ」
「喜ぶわけないよ。罵られて、怒られるよ。嘘つきって」
エレナの声が湿り気を帯びる。
死んだと思って涙を流してくれた親友。その涙を裏切り、15年ものうのうと生きていた自分。
今更「生きていました」なんて、どの面を下げて会えばいいのか。
拒絶されるのが怖い。
何より、彼女の今の幸せを、亡霊である自分が壊してしまうのが怖い。
「……どうだろうな?」
カインが立ち上がり、エレナの隣に並んだ。
同じように空を見上げ、淡く光る精霊たちを目で追う。
「髪紐」
「えっ?」
唐突な単語に、エレナが涙目のまま横を向く。
「あいつはまだ、『あの髪紐』を肌身離さず、細い腕に巻いている」
「!!!」
エレナの時間が、止まった。
髪紐。
それは15年前、まだ平和だった頃の記憶。
鍛錬の邪魔になるからと、自慢の赤い髪を切ろうとしていたセレーナ。
それを止めたくて、彼女の髪を結うために、フレデリカがプレゼントしたもの。
『あなたの髪は綺麗だから。切らないで』
そう言って渡した、ただの髪紐。15年も前の、ありふれた装飾品。
「あいつは、お前を忘れていない。……一日たりともな」
カインの言葉が、エレナの胸に突き刺さる。
セレーナはずっと、持っていてくれたのだ。
フレデリカとの思い出を。友情を。
色褪せてボロボロになっても、肌身離さず。
それは、セレーナとフレデリカを繋ぐ、切れることのない絆の証明。
「……そっかあ……」
エレナの目から、大粒の涙が零れ落ちた。
「そうなんだ……そう……なんだ……」
堰き止めていたダムが決壊したように、涙が止まらない。
恐怖も、罪悪感も、全てが洗い流されていく。
残ったのは、ただ純粋な、焦がれるような想いだけ。
「会いたい……! 会いたいよぉ……!! セレーナ……!!!」
エレナは空を見上げながら、子供のように泣きじゃくった。
王女としての矜持も、大人のフリもかなぐり捨てて。
「わんわん」と声を上げて泣き続ける彼女の姿は、15年前の、ただの少女に戻っていた。
カインは慰めの言葉をかけなかった。
肩を抱くこともしなかった。
ただ黙って、泣き止むまで彼女の横に立ち尽くし、彼女の涙を夜空と共に受け止めていた。




