100話 時計の針が指し示す場所
「……フレ……」
カインの声を遮るように、彼女はカインに背を向けたまま、俯いていた。拒絶か、あるいは逃走か。
誰もが息を呑んだ次の瞬間、彼女はパッと顔を上げ、弾かれたように振り返った。
「初めまして! コレットのお仲間のカインさんね?」
そこにあったのは、満開の花のような笑顔だった。あまりにも完璧で、あまりにも痛々しい……精一杯の「演技」。
「話は聞いてるわ! 私は………エレナ……! お見知り置きを」
少女は左足を一歩後ろに引き、両手でスカートの裾を摘まむと、膝を曲げて深く頭を下げた。
カーテシー。
古式ゆかしい、高貴な女性による最敬礼。その所作は優雅で美しかったが、カインの鋭い目は見逃さなかった。スカートの生地を握りしめる彼女の指先が、白くなるほど強く力を込められ、小刻みに震えていることを。笑みを貼り付けた唇が、嗚咽を噛み殺すように引き結ばれていることを。
「……」
カインは何も言わなかった。ただ、彼女の震える小さな肩を、静かに見下ろしていた。
「……そうか。連れが世話になった」
カインは短く、他人に接するような言葉を選んだ。
だが、その声音には隠しきれない優しさが滲んでいた。
挨拶を終えた姿勢のまま、エレナがハッとして顔を上げる。
その銀色の瞳が、激しく揺らいでいた。拒絶されると思っていたのか。それとも、他人のフリをされることに安堵したのか。様々な感情が渦巻く瞳で、カインを見上げる。
カインは、眉間の皺を解き、穏やかに目を細めた。
それは、コレットやリザさえ見たことのないような、憑き物が落ちたような安らかな笑顔だった。
「コレットを助けてくれて、ありがとう」
「……っ……」
その笑顔を見た瞬間、エレナの中で張り詰めていた糸が切れた。
王女としての誇りも、演技も、全てが崩れ去る。
彼女の膝から力が抜け、ガクンと地面へ崩れ落ちる。
「先輩ッ!?」
コレットが慌てて駆け寄ろうとした。
だが、それよりも速かった。
カインが一歩踏み出し、崩れ落ちるエレナへと手を差し伸べたのだ。
「!」
エレナの目の前に、大きな手が差し出される。
かつて自分を守ってくれていた。優しく強い手の平。
「……服が汚れるぞ」
ぶっきらぼうな物言い。けれど、それは15年前と変わらない、彼なりの不器用な気遣いだった。
「……ぅ……」
エレナは、溢れ出しそうになる涙を必死に堪えた。
激しく瞳を揺らし、噛み締める唇からは血の味が滲む。そして必死に堰き止めている涙で視界が滲む。
震える右手を伸ばし、おずおずとカインの手へと重ねる。
ギュッ。
エレナの手が触れた瞬間、カインは奥歯を噛み締めた。小さい。記憶の中の彼女よりも、ずっと小さく、華奢な手。
この手が、地獄のような瓦礫の下で生き延び、今日まで命を繋いできたのだ。
カインは彼女の手を強く引いた。立たせるためではない。
「……!!!」
強い力で引かれたエレナの体は、そのままカインの胸の中へと収まった。
カインは両腕を回し、彼女を強く、強く抱きしめた。言葉はない。
ただ、その体温と心臓の鼓動だけが、互いの生存を確かめ合うように重なる。失われた15年を埋めるような、痛いほどの抱擁。
「ええええっ!? カインなにしてんのっ!? いくらその子が可愛いからってそれは……!!」
リザが素っ頓狂な声を上げて驚愕する。だが、その場の空気は、そんな冗談が通じるようなものではなかった。
あまりにも濃密で、完成された二人の世界。
まるで、15年間連れ添った恋人が抱擁をするように。
ズキンッ!!!
「はぁ……! はっ……!!」
その光景を見た瞬間、コレットの胸を、心臓を鷲掴みにされたような激痛が貫いた。
「……っ……?」
痛い。物理的な痛みではない。魂の根源が拒絶反応を起こしているような、冷たく鋭い痛み。目の前の光景が、遠い世界の出来事のように見える。
カインの腕の中にいるのは、私じゃない。あそこには、私の入る隙間なんて、最初からなかったんだ。
視界が白く明滅する。呼吸ができない。肺が空気を拒絶している。
「う……」
コレットの体がふらりと傾いた。
「コレット!?」
異変に気づいたリザが、慌ててコレットの体を支える。
「コレット!? カイン! コレットの呼吸がおかしくなってるよ!!」
リザの悲痛な叫び声。その声は、カインの耳に雷鳴のように届いた。
「!」
カインの体が反応した。抱きしめていたエレナの体の温もり。15年越しに取り戻した、大切な感触。
だが、カインは迷わなかった。
バッ。
カインはエレナを離し、即座に背を向けた。地面を蹴り、崩れ落ちるコレットの元へと疾走する。
カインはエレナの方を振り返らずコレットだけを見ていた。
「……あ……」
エレナは、空っぽになった自分の腕を見つめた。温もりが消えた。カインの背中が、遠ざかっていく。
かつて城で別れた時と同じように。
けれど決定的に違うのは、今の彼には「向かうべき場所」があるということ。
『……う、ぐぅ……ッ!』
コレットの中のルビィもまた、主の激痛と同調し、苦しげに明滅していた。
胸が引き裂かれそうだ。これは嫉妬? 羨望? いいえ、もっと根源的な「恋」の痛み。
「コレット……! 大丈夫……大丈夫だよ……私がいるよ……! この痛みは……私も半分引き受けるから……!!」
カインが滑り込むように膝をつき、過呼吸で震えるコレットの上半身を抱き起こした。
「はあ……! はあ!! ぁ……カ、イン……さ……」
焦点の合わない瞳が、虚空を彷徨い、カインの顔を捉える。顔色が悪い。冷や汗がびっしりと浮かんでいる。
「……っ」
カインはコレットを強く抱きしめた。さっきエレナを抱いた時とは違う。
壊れ物を扱うような、けれど絶対に放さないという意志のこもった力強さで。背中をさすり、乱れた呼吸を整えさせるように、自身の鼓動を伝える。
「……息を吸え、コレット」
カインの声が、耳元で響く。その低く落ち着いた声だけが、崩壊しかけたコレットの世界を繋ぎ止めるアンカーだった。
「……」
少し離れた場所で、エレナはその光景を見つめていた。カインが、別の少女を必死に介抱し、その名を呼ぶ姿。
そこにあるのは、かつて自分が知っていた「アトス」ではなく、今の彼が築き上げた、新しい絆の形。
エレナは、震える手で自身のスカートを握りしめた。
寂しさと、安堵と、そしてほんの少しの羨ましさが、胸の中で静かに混ざり合っていた。
『そっか……15年間……ずぅっ……と。【囚われていた】のは……私の方だったんだ……』
「コレット、俺を見てゆっくりと呼吸をしろ」
「は……はぁ………は……」
コレットの呼吸が次第に落ち着きを取り戻す。
それに伴い、ルビィも落ち着く。
(……そこの精霊はコレットとリンクしているのか……? ……コレット……精霊と契約したのか……)
カインがコレットの手を優しく握る。
「本当に……強くなったな、お前は」
「カインさん……」
精霊の光に照らされる2人のその光景は、エレナにはまるで、深く想いの繋がっている恋人同士のように見えた。




