97話 精霊王
戦いが終わり、極彩色の森に静寂が戻った。
コレットとエレナの眼前には、浄化された「大樹」が黄金色の光を放ちながら鎮座している。
かつて腐食し、グロテスクな姿を晒していた巨木は、今は神々しいまでの生命力に満ちていた。
光の中から、一人の「気配」が現れた。実体があるようでない。
老人のようでもあり、青年のようでもある。木の根が編み込まれたような衣を纏い、その瞳は宇宙のような深淵を湛えていた。
「……よくぞ、森を救った。小さき導き手たちよ」
声は鼓膜ではなく、魂に直接響いた。
精霊王。この妖精郷プリズマリアを統べる、世界の意思の一部。
「私は精霊王。この森を救ってくれた、礼を言う」
王が緩やかに手を振ると、宙に舞っていた光の粒子たちが集まり、柔らかな風となって二人を撫でた。
癒やしの風。コレットとエレナの傷ついた体が、温かな光に包まれて回復していく。
「世界は、円環だ。お前たちが祓った穢れもまた、巡り巡って生まれ落ちた人の業。……だが、それを清めるのもまた、人の手によるものか」
王は穏やかに語り出した。世界の成り立ち。精霊とは、この星が呼吸をするために生み出した器官であること。
そして、森を飛び回る小さな妖精たちが、やがて精霊へと育つ「幼体」であること。
王の視線が、エレナへと向けられる。
「金色の髪の娘よ。お前の中には、我らの同胞が宿っているな」
「……ええ。分かりますか」
エレナは自身の胸に手を当てた。
瓦礫に埋もれたあの日。瓦礫の暗闇の中で微かに聞こえた声。
彼女の命を繋ぎ止めるために融合した微精霊。その代償として、彼女の肉体は変質し、歳を取ることを止めてしまった。
「歪な共生だ。人の身には余るだろう」
王は静かに問うた。
「私がその楔を解くこともできる。そうすれば、お前は再び『ただの人間』として、自然な老いと死を迎えることができるだろう。……どうする?」
それは、呪いからの解放の提案だった。だが、エレナは迷わず首を横に振った。
「いいえ。結構です」
彼女は愛おしそうに胸を撫でる。
「この子は、私の命を救ってくれた。今の私は、この子と共に在ることで私なんです。……このままで、いい」
「……そうか。ならば、その縁を大切にするがよい」
王は満足げに頷き、次にコレットへと向き直った。その視線は、コレットが胸に抱いている二つの石――「アズライトの栞」と、赤い結晶となった「ルビィ」に注がれた。
「その紅き石……案内人の成れの果てか」
「ルビィちゃんは……助かるんですか?」
コレットは縋るように尋ねた。
「契約を結べば、な」
王の言葉に、コレットの表情が明るくなる。だが、王はそれを遮るように重く続けた。
「だが、覚悟はできているか? 精霊契約とは、魂の同化だ」
かつて、人間たちは精霊の力を欲するあまり、彼らを追い詰め、魔力を枯渇させて強制的に「精霊石」へと変える「精霊狩り」を行っていた歴史がある。
物言わぬ石となった精霊は、道具として消費され、砕かれた。だからこそ、精霊は人間を拒み、姿を隠すようになったのだ。
「契約を結べば、お前はその精霊石を『個』として認め、魂を共有することになる。……悲しみ、苦しみ、喜び、そして痛み。その全てが、お前のものとなる」
「全て……」
「精霊が泣けば、お前も泣く。お前が傷つけば、精霊も血を流す。……人の身で、純粋すぎる精霊の感情を受け止めきれるか?」
それは、一生背負う枷。
もし契約しなければ、ルビィは精霊石のまま、ただの魔力リソースとしてコレットの助けになるだろう。それは道具としての「救済」かもしれない。
コレットは、ふとポケットに入っていたもう一つの石を取り出した。水晶の湖の主から託された、水色の宝石。
「……王様。この子は? この子とも、契約すれば元に戻れますか?」
王は悲しげに目を細めた。
「それは無理だ。その石は……死の間際の精霊が、最後の力を振り絞って結晶化した遺物。そこにはもう、契約を結ぶほどの魂は残っていない」
「そんな……」
「だが、そこには確かな祈りが込められている。お前のように清らかな魂を持つ者に使われるならば、その石も本望だろう。それをお前に渡した者は……それを大切にしていたはずだ。だが、お前に預けた。お前だからこそ、預けたのだろう。せめて……供養だと思って、大切に使ってやってくれ」
コレットは水色の石を胸に抱いた。
戻らない命がある。けれど、ルビィはまだ、ここにいる。
「……決めました」
コレットは顔を上げた。その瞳には、一点の曇りもなかった。
「私、ルビィちゃんと契約します」
「なぜだ? 痛みを共有してまで」
王の問いに、コレットは微笑んだ。理由は、理屈ではない。
「また、ルビィちゃんに会いたいから。……ただ、それだけです」
王は、しばらくコレットの瞳を見つめていた。やがて、その厳格な顔が、春の日差しのように緩んだ。
「……よかろう。久方ぶりに見る、曇りなき魂だ。生まれる場所が違えば……お前はもしかしたら精霊として生まれてきていたかもしれんな」
「え? 私がですか?」
それほどまでに、純真無垢。
澄み切った、精霊王でさえも顔を背けそうになるほど澄みすぎた魂。
王が手を掲げる。大樹がざわめき、無数の光が集まり始めた。
「準備はいいか、小さき導き手よ。……これより、魂の儀を執り行う」
◇
黄金色に輝く大樹の下。コレットは両手を掲げ、紅玉ルビィの結晶を宙に浮かべていた。
周囲には、森中から集まってきた大小様々な精霊たちが、光の粒となって揺らめき、静かに儀式を見守っている。風の音も、葉擦れの音も消えた、厳粛な静寂。
『――汝、魂の伴侶として、痛みを分かち合うことを誓うか』
精霊王の声が、世界に響く。
「はい。誓います」
コレットの声は震えていなかった。彼女の胸元で、アズライトの栞が呼応するように青く輝く。
カインとセレーナが繋いでくれた力。そして今、コレット自身の意思で結ぶ、新しい絆。
『――契約は成った』
カッ!
紅い結晶が、太陽のような強烈な光を放った。硬質な殻が音もなく霧散し、光の粒子となって再構成されていく。
コレットの心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
同時に、胸の奥に温かい熱が流れ込んでくる。
それは誰かの鼓動。誰かの喜び。
「会えて嬉しい」という、爆発しそうなほどの純粋な感情が、コレットの涙腺を刺激した。
光が収束する。そこに立っていたのは、光の球体ではなかった。
「……ルビィ、ちゃん?」
透き通るような桜色の髪。宝石のように美しい紅い瞳。
背中には小さな天使の羽を生やした、8歳ほどの無垢な少女が、そこにいた。
「……コレット!」
少女――ルビィは、満面の笑みでコレットに飛びついた。
温かい。柔らかい。石の冷たさではない、確かな命の重み。
「よかった……! 戻れたんだね、ルビィちゃん!」
「うん! 聞こえるよ、コレットの声! コレットの気持ち! 全部、ぜーんぶ繋がってる!」
ルビィが頬ずりをする。
その瞬間、コレットの中に「大好き」という感情が流れ込んできた。
言葉ではなく、心で直接触れ合う感覚。痛みも共有するかもしれない。けれど、この喜びを共有できるなら、何も怖くはない。
「契約精霊となった者は、その姿を変幻させることができる」
精霊王が穏やかに告げた。
人間の姿、精霊の姿、そしてコレットの内側に宿る精神体としての姿。ルビィは今、コレットの一部であり、同時に独立した家族となったのだ。
「コレット。お前は今日より『精霊魔法士』だ。……その絆を、大切にな」
王の姿が、光の粒子となって大樹へと溶けていく。見守っていた精霊たちが、祝福するように一斉に輝き出した。
「わぁ……!」
森中が、虹色の光に包まれる。それは戦いの終わりを告げる、美しいフィナーレだった。




