02
この屋敷には先生が育てている沢山の植物がある。屋敷を飾る観賞用の花から薬の材料になる魔法植物まで様々だ。元々先生は薬学系の研究に携わっていたらしく、数十年前まではその分野で教職に就いていたらしい。
玄関にある花に日課の水やりをしていると花の茎に蛹がいることに気が付く。
花の葉を食い荒らしている虫がいるとは思っていたが犯人はこの子か。幼虫ならさっさと取り除いていたが蛹になっているのなら放置でいいだろう。もう葉を食い荒らす事もしないし。鳥につつかれては可哀想と軽く葉で隠してあげるとふいに指に違和感を覚えて指先を見つめた。
ぱっくりと赤く傷が開いているのを見て皸になっていた事に気が付くと家に戻って薬品棚のある部屋に向かった。
この屋敷は二人暮らしにしては大きな薬品棚がある。棚というかこの小部屋の壁は上から下まで全面が棚だ。先生に触れてはいけませんよと言われた何に使うかわからない様な薬品も沢山置いていた。
その中から絆創膏を取り出して指に貼り付けていると先生が出しっぱなしにしていた薬品の瓶が目に入る。
魔法で簡単に棚に戻せるのに、先生は時々ずぼらになるんだから……と棚に戻そうとしたがこれは私が触れてもいい薬品だろうか?と触るのをとどまり瓶を見つめる。
茶色いガラスに入ったコルクで閉められている小瓶を透けたガラス越しに眺めると中身は錠剤のようで先生が普段から持ち歩いている薬だと気が付く。
先生が病気なのではないかと不安になって中身について聞いたことがあった。先生は血液錠剤だと言っていた。最近は研究が進み人口血液や血液錠剤だけで吸血鬼は十分な事が多いそうだ。
以前見せてもらった時に渡して見せてもらった事から触れてもいいものだろう、先生のところに持っていこうと持ち上げてふと思い出す。
先生が自身は吸血鬼だと教えてくれた時、私が何の力も持たない人間だとわかった時、ならば先生は私の血を吸うために私を飼っているのかもしれないと頭によぎった。
今にして思えばそうあってくれたらどれほどよかった事か。先生は私が目の前で血を流しても一滴も吸おうとはしなかった。
先生が私の血を吸ってくれたら、私がここにいてもいい理由になるのに。
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「先生」
先生は居間で手紙を読んでいた。珍しく私が声をかけるまで存在に気が付かなかった事を見るにそれだけ集中するような大切な手紙だったのだろうか先生は手紙を机の上に置くと「嫌になりますねぇ、本当に」とため息をつきながら零した。
「……今都合悪かったですか?」
「いいえ?大丈夫ですよどうかしましたか?」
弱った様子を見せた先生に戸惑っていると先生はすぐにいつもの調子に戻っておいでというように手を振った。
「いいの?」
「些末事ですよ」
……こういう時はあまり深く追求しない方がいいのだろう。基本なんでも教えてくれる先生が事情を話してくれないという事は聞かないでほしいということだろうから。
「先生、忘れてましたよ」
と小瓶を渡すと「あぁ、新しいのを出してそのままにしてました、ありがとう」と瓶を受け取って傾けた瓶の中でじゃらじゃら音を立てて転がる錠剤を上の空のように見つめていた。
……薬の放置といいなんだかぼんやりしてる?
その時話を切り替えようと思ったのか今の先生ならもしかしたら答えてくれるかもしれないと思ったのか、普段はぐらかす先生へのちょっとした意趣返しのつもりだったのか、私は普段ならしない質問を先生に投げかけた。
「先生はどこで血を吸ってきているの?」
私の血を吸わないの?と直接的には聞けなかった。きっとそれを言ったら先生は怒ると思ったから。
先生はわざとらしく目を瞬かせるとすぐに困ったように笑みをつくって「何で吸ってる前提なんですか」と聞き返した。
「私が家から出ずに引きこもっているのはあなたも知っているでしょうに」
「買い物に行っているときに吸ってきてるのかなって……」
先生は週に一度一人だけで数時間買い出しにでる。週に一度しか血を吸わないから錠剤に頼っているのではないのだろうか。外で吸ってきているから私の血には反応しないのかもしれない。
「吸血鬼は血がご飯だって」
「人間と同じ食事と錠剤だけで事足りますよ、私が裏で食べたものを吐き戻していると考えているんですか?」
「いいえ、先生が特別おかしな吸血鬼だから人間の食事もできるのかなって……でも吸血鬼って生き血を飲まないと飢えて死んでしまうんでしょう?」
「あなたは私にどんな偏見を持っているんですか、いや吸血鬼への偏見も凄そうですねどうした事でしょう」
先生が信じられないと言わんばかりに大げさなリアクションをしたので私は黙って顔を本棚に向けた。先生も私の目線を辿るとあぁ、と納得したように頷き人差し指を本棚に向けてから、くいっと自分の方に指を曲げる。
すると棚から本がゆっくりと先生の方に浮かんで向かっていった。
「懐かしいお伽話ですねぇ実に人間らしい偏見に塗れたお伽話でした」
「あなたは昔から本当にこのお伽話が好きですね」
先生が取り出した本は記憶を失う前、幼い私を拾った頃勉学のために私に買い与えてくれた本の一つだった。
中身は恐ろしい吸血鬼が国中から愛された美しいお姫様を攫って永遠に血を吸うために永遠に眠る魔法をお姫様にかけてしまう。そこに隣国の美しい王子様が吸血鬼を倒してお姫様を助け出す。吸血鬼が倒された事でお姫様は目を覚ますけれど自分が誰か思い出せなくなっていたお姫様に王子様がキスをすると奇跡的に記憶を取り戻してそれをきっかけに二人は結婚、幸せに暮らしましたとさというものである。
正直これとよく似た展開のお話は同じ本棚にいくらでも収まっているのだがこのお伽話は先生の言う通り吸血鬼に対する偏見ばかりで溢れていた。
曰く、吸血鬼は太陽の光を浴びると死んでしまう、にんにくや十字架、銀の物が弱点、美しい女性の血を好んで吸う、生き血を飲まないと飢えて死ぬ等々。
私自身嘘塗れな事は理解していたものの今でも一番好きな本であるのは事実だ。何故って先生が私に初めて寝物語として読み聞かせてくれた本だったっていうから。
きっと中身も見ずに購入したのだろう記憶の存在しない私は一切その事を思い出せないけれど、その時の先生の様子を思い浮かべるとそれだけで面白い。もしかしたら記憶を失う前の私が気に入っていた理由もそうなのではないだろうか。中身は酷い内容だというのに私が気に入っていたという理由だけで大きくなっても、記憶を失ってもこの本を置いておいてくれた事が嬉しかった。
だから今の私にとっても一番好きで大事な本なのである。
「コラ」
呑気に本を眺める私を軽く先生は叱った。
「この本はあなたの記憶を戻す一助になるかもと思って渡しました。記憶を失ったあなたは文字の読み書きさえ忘れてしまっていたので私がまた読み聞かせてあげましたけど」
「この本の中身は嘘ばっかりと教えたはずですよ」とプラプラと本を振る。少し雑な扱いにすぐに動いて先生の手から本を取り上げると「わかってます」と言い返した。
何も私だってこのお伽話だけで吸血鬼の知識を補完しているわけじゃない。本だとかネットだとか知識は入れているのだ。
でもどの媒体にも吸血鬼は血に飢えて死ぬことは無いが最低限は血を飲むし、血を前にすると程度は変われど吸血衝動という興奮状態に入ると記述されている。
「……じゃあ先生はどうして血を吸わないの?美味しいものなんでしょう?」
だって吸血鬼なのに、吸血鬼が血を吸わないなら一体なんだというのだろう。先生は思考するように指を顎に当てて「う~ん……」と唸ってから「昔中った事があるんですよ」と答えた。
「中った?血を飲んでお腹壊しちゃったって事ですか?」
「えぇ、そうですそれ以来生き血がどうも苦手になってしまって」
「だからこうして錠剤だけで済ませてしまうんですよ」と一粒瓶の中から取り出して口の中に放り込む。
「それ、美味しいんですか?」
「ラムネのように甘いというわけでもないので美味しいわけではないですが」
「先生、ラムネ食べたことあるの?」
「そりゃあありますよ。まあ、あくまでも吸血鬼の欲求を抑えてくれるものでしかないという事です」
「他の吸血鬼はそれで抑えられているの?」
「う~ん……最近の吸血鬼事情にあまり明るくないのでなんとも言えませんが……」
「私は特別だということです」
そう言ってニッコリと笑った先生にガクリと肩を落とす。つまり私の持っている知識は正しかったが目の前の千年以上を生きる吸血鬼には該当しない事だったと。何が特別なのかは全くわからなかったが中ってしまった事が相当なトラウマになっているのかもしれない。
本当にトラウマに思っているのかはどうにも怪しく感じたが、血を吸わなくても平気な事は本当の事なのだろう。
本当に吸血鬼が血を吸わなくても生きていけるなんて、先生は今すぐ吸血鬼という種族名を返上するべきではないだろうか。
「そ、それなら」
「……それなら、先生は私の血は吸わないんですか?」
緊張で喉が痞える。先生の赤い瞳が真意を問うようにこちらを見つめる。きっと先生は理解した事だろう。さっきから私が何のために質問していたのかを。先生はきっと私を叱るだろう。
この後が想像できて思わず目を下に逸らしたまま服をいっぱい握りしめた。
「ノラさん」
「……はい」
大人しく先生の方へ向かって立ち尽くす。叱られる体勢に入った私に先生は呆れたように、しかし優しく笑った。
「自分を大事にしてください、噛まれるのって凄く痛いんですよ?」
「……飲んではくれないんですか?」
すると先生は困ったように眉を下げた。
わかってた、先生はきっと困るって。私を傷つけないように言葉を選ぶだろうってずっと吸わなかったのだからこれからも吸う事なんて無い。でも、何かここにいていい理由がないと、怖い。
いつか捨てられてしまうんじゃないかといつまでも不安を覚えて、それに気が付いた先生が夜にわざわざ自分の時間を潰して、不毛すぎる。先生に何の得があるというの。
やっぱり先生には私の不安が伝わったようで立ち尽くす私にここに座りなさいというようにソファの隣を叩いた。
しかし私はそれを聞かずにソファの横、ふかふかの上質なラグの上に下を向きながら座り込んで頭を差し出すと先生はすぐに頭を撫でながら「本当に私の事をなんだと思ってるんですかあなたは……」と口角だけあげた。
「私にとって大事な娘で生徒で、ペットのようなものです家畜のように育てて食べるために一緒に暮らしているわけではありませんよ」
「ペット……」
「ええ、ですから飼われていてください」
私は十分な情操教育を受けたと思う。道徳心、人間的価値観。どれも先生が教えてくれたものなのに、ソレはここではいらないと言われたような気がした。
本当に、それで……?確かめるように先生の足に頭を寄せるとそれが正しいと言わんばかりに更に頭を撫でて身体を曲げて私の耳元まで顔を寄せる。
「いい子にしていて」
先生がそう言うなら。先生がそれでいいのなら。きっと私は先生からの肯定が欲しかっただけ。
私だってわかってるから、この閉ざされた二人きりの世界で、人間の常識や価値観を当てはめる事の方が間違っているって。先生を信じればいい、だからもうウジウジ考えるのはやめにしよう。
私はさっきの先生の言葉に答えるように黙って頷いた。




