05
距離の遠い転移魔法はそれなりに身体に負荷がかかるがキーランはそれに構うことなく使った。
魔力酔いの影響で弱った身体のノラに吸血鬼化の魔法を耐えられるのかはわからなかった。
ラルフは治癒系の魔法も扱えたはずだがまだ、荒い。吸血鬼化を実行したのが昨日のどのタイミングかはわからなかったがキーランなら対応できるだろう。
しかし、飛んで向かう道中で覚えのある魔力を感じて止まる。
この感じることが難しいほど少量の魔力は……。
その出所は街の路地裏からで、その時キーランは妙なざわつきと既視感を感じた。
肌を刺すような寒い夜。あの日の夜のようにしんしんと降る雪。回収される事のないゴミの溜まり場。
……投げ出された青白い、身体。
あの時のような、あの時と同じでは無い名称しようの無い感情がキーランの中でぐるぐると回る。
間違いなくそこに打ち捨てられていたのはノラだった。
何故、そう考えはするものの、あの時のように観察するまでもなくノラの身体を即座にコートで包み込んで容態を確認しながら回復させる。
かろうじて間に合ったようで安心し、そのままラルフの家に連れて行こうとして、やめる。
ノラがこうなっているのはどう考えてもおかしい。
キーランはとりあえず宿をとってノラを寝かせる事にした。
ノラは生きていた。
しかし、どうにもおかしい。吸血鬼化の魔法は掛けられていたがどうにも中途半端だ。
ノラの首には吸血鬼化に必要な吸血痕が残されていたがノラはまだ吸血鬼になっていない。
ノラは吸血鬼でも人間でもない中途半端な状態であった。
とりあえず一命は取り留めた。中途半端ではあるため魔力酔いの事を考えると早めにラルフには対応してほしいが一体ラルフは何をしているのか。
ラルフの話を聞かねばならないだろう。
キーランはノラに布団を掛けてやるとノラに影響が出ないように慎重に結界を張ってからラルフの家に向かった。
******
ラルフの身に何か起きたのかもしれないと考えていたがラルフの家にはラルフの魔力があり家には明かりも点いていた。
キーランが呼び鈴を鳴らすとラルフが普通にでてくる。
「キーラン先生?お久しぶりじゃないですか」
「……ラルフくん、随分とお元気なようで」
「ええ、三十年ほど経ちましたか? 先生もお元気なようで何よりです」
それまでどういう事かと問い詰めてやろうとしていたキーランの口が止まる。
どういう事か、もしや、これは……。
「駄目だろうラルフ、起きたばかりなのに動き回っては……」
そして奥から出てきたのはラルフと同じ色素を持つ吸血鬼、ラルフの兄のエデルだった。
エデルも元々はキーランの教え子でシュバルツ家の次男であるエデルは人間差別の吸血鬼至上主義の者だ。
混血を馬鹿にしたりと問題の多い生徒でキーラン自身もいい印象を持っていない。
裏では人間を苦しめて遊んでいるという噂も立っていた生徒だ。
「これは、これはキーラン先生ではないですかこんな時間にいかがされましたか?」
まるで挑発するかのように笑ったエデルとラルフにかかっている魔法の正体に気が付いて、キーランは全てを察した。
ラルフに記憶操作の魔法がかかっている。
ラルフの口ぶりを考えればここ一、二年。おそらくキーランの家を訪ねた時期よりも前に記憶を戻したのだろう。
おそらくシュバルツ家がノラの存在に気が付いてノラを排除しようとした。
しかし、ラルフの説得ができなかったため強硬で家に乗り込んでノラを消そうとしたがラルフの抵抗が想定と違っていたのだろう。
まさか高潔な吸血鬼の一族であるラルフが人間の小娘に本気で絆されているという考えに至らなかった。
ノラを目の前で殺せば優秀なラルフとの対立してしまうと考えたシュバルツ家はノラを魔力で酔わせたのだろう。
その間に説得すればいいと思ったのだろうがラルフは当然ノラを守った。
……なんて古典的な事を、と思ったが事実若いラルフはそれに気が付かなかったのだろう。
単純に凝った呪いの類ならラルフが解いただろうがラルフは魔力酔いの存在すら知っていたのか定かではない。
過去の連絡を見るにシュバルツ家との縁を切る予定もあったのだろう。
当然シュバルツ家は優秀なラルフを手放すわけは無く、混血すら侮蔑の対象にしているあの家の事だ。当然ノラの吸血鬼化などを許すわけがない。
ラルフも相当焦っていたに違いない。ラルフは優秀な魔法使いだ。通常なら見せない隙をつくってしまったのだろう。記憶を消され、ノラはあそこに捨てられた、と。
ここまで考えてキーランは肩の力が少し抜ける。
あいも変わらずエデルは軽薄な笑みを見せているが明らかにこちらを警戒するように観察しており、ラルフは何も言わずに黙り込んだキーランを見て混乱しているようだ。
────もう面倒臭いな
とキーランは思って何も言わずに踵を返した。
別に大したことのない記憶操作魔法だ。今ここでラルフの記憶を戻す事など容易であったがそんな事をすればエデルは黙っておらず確実にシュバルツ家とは対立する事になるだろう。
なんて馬鹿馬鹿しい。あの程度の記憶操作魔法なら少し違和感を覚えるだけでラルフ自身が勝手に破る事だろう。
別にここで暴れてエデルを殺し、ラルフを叱りつけてやる事も、古いだけが取り柄で大した力を持たないシュバルツ家を敵に回す事もキーランにとっては“面倒臭い”以外に問題はなかったが何故よりにもよって人間や連盟の吸血鬼達を相手にして疲れた時にやってくるのか。
こういった事が嫌だったから権力は持たなかっし比較的楽しんでいた教師も面倒になってやめたのだ。
そんな事よりも早急に帰ってノラを診てやらねばならない。こんな所にいてたまるかとキーランは戸惑うラルフを置いて転移の魔法を使った。
******
未だ青白い顔をしたノラを抱えて家に帰ると半年ほど空けていた家は流石に埃が酷く、清掃魔法をかけるとノラの部屋まで連れて行ってベッドに寝かせた。
「帰ってきましたよ、ノラさん」
最後に見た日からノラの銀髪が伸びていた。
いつも長いと植物の世話をする時に邪魔だと言っていたのでキーランが短く整えていたがラルフには頼まなかったのか。
しかし前髪は整えているのを見るとラルフのために女の子らしく伸ばそうとしたのか。
顔にかかっていた柔らかな髪を避けて頬を撫でる。
そのまま魔法で診ると確かに生きているし最初よりは体調も体温も戻ってきているようだ。
しかし、吸血鬼化したという事は二度とノラのあの暖かな体温に戻る事はないのだろう。
吸血鬼化の魔法の方を見ると酷く曖昧になっている。おそらくノラの魔力が極端に少ない事への影響が大きかったのだろう。
様子を見るに吸血鬼化の魔法は随分と時間をかけた事だろう。ただでさえ弱り切った身体だ。慎重に行わなければノラの身体が壊れてしまう。
ラルフはおそらくそこを狙われた。証拠に中途半端なところで魔法がとどまっていた。
しかし吸血鬼化も絶対でない事はニュイの件でわかっていたため皮肉ではあるがこれでよかったのかもしれない。ノラの身体では耐えられなかった可能性の方が高い。
しかし、途中で魔法を中断した代償は大きく出るだろう。
ノラの色素の薄いまつ毛が震える。
起きたのかと顔を覗き込めばあの日のように生気のない瞳がこちらを薄く見つめていた。
「せんせ……さむい、たすけてせんせい」
そう言って涙を流したノラを見てキーランは何を感じたのか。
ぐるぐると様々な感情が変容しながらキーランの中を動き回る。長く生きてきて初めての事であった。
僅かに感じ取れた一つの感情は間違いなく怒りで、どこか冷静に物事を俯瞰して見ていた自分が、そんなに感情的になれるのか、と驚いた。
──何をそんなに怒るのか、ただの人間のペットだ。
しかしそう冷静に心を落ち着けようとするキーランの中でノラとの記憶が駆け回る。
ペット?生徒?馬鹿を言うなこの子はそんなものでは無い。……ならば娘か?しかしそれもやはり違う気がした。
キーランはとにかく冷静に顔の筋肉を一つも動かすことなく感情の無い瞳で既に目を閉じて意識を落としたノラを見つめた。
ノラの肌に残された痛々しい吸血痕を再度見つけて、ふとラルフの言った言葉を思い出してキーランはやっとノラという存在に対する答えの一つを見つけたのかもしれない。
──僕に嘘をついたな、先生。彼女はけしてペットなどではなかったぞ。
彼もこの穏やかで暖かなこの子に惹かれたのだろうか。
キーランの中に燻っていたものはノラの様な淡い恋心などでは確実に無かったしラルフの思いとも全く違うものだろうが。ラルフがノラに惹かれた理由は手に取るように理解できた。
彼もこの子を我々のような冷たい吸血鬼になどしたくなかっただろうに。
──ええ、そうですねラルフ君私は確かに嘘をつきました。彼女はけしてペットでも生徒でも娘でもなかったですよ。
吸血鬼化に必要な服従の証明もラルフが行っていたため噛む必要など別に無かった。彼の魔法の繋ぐように継続してやればいい。
しかしキーランはノラの首元に顔を埋めてまるで当てつけかのように、ラルフがつけた上から牙を埋めた。
すぐにノラは目覚めた。
ゆっくりと吸血鬼化を進行することにしたため中途半端で不安はあったが魔力酔いに対応できるほどの身体にはなれたようだった。
しかしそれは本能に負けてノラを噛んだキーランへの罰だったのか、ノラは吸血鬼化の後遺症がわかりやすくでた。
──ノラは過去の記憶全てを無くしていた。