01
大きな両階段を少し速足になってかけ上る。締め切ったカーテンの隙間から朝日が差し込む長い廊下をパタパタとスリッパの音を立てながら歩いて目的の部屋の前に着いた。
軽くノックをして「先生、朝ですよ」と声をかけてから鍵のかけられてない部屋を開けて中に入る。眠っている先生の様子を伺うと声をかけたにも関わらず先生は微動だにしないまま静かに眠っていた。
昨日は夜更かしでもしたのか、仕方がないなと笑みをこぼし窓に近づいて思いっきりカーテンを開く。朝日が目に入って眩しいがそのまま空気の入れ替えに窓も開けて振り返ると流石に起きた先生が眩しそうに手で目を覆いながら「もう朝ですか」とゆっくりと身体を起こしているところだった。
起こしてくださいってお願いする割にこうでもしないと起きてくれないんだから。
「おはようございます、先生」
声を掛けながらベッドまで近寄ると朝日越しで眩しいのか顔を少し歪ませて宝石の様に輝く赤い瞳をこちらに向けた。癖があるが艶やかで長い黒髪に病的なほど白くシミひとつ無い美しい肌。千年以上生きているというのに皺ひとつない顔を先生は少し綻ばせて笑う。
それを見て更にベッドの方に近寄ると先生は私の頭の上に手を置き優しく撫でた。
「おはようございますノラさん」
まるでペットを相手にするようないつもの手つきで撫でる先生にはい、と返事を返して朝日の光に照らされた先生を上目で見る。精巧に作られた人形の様に美しいこの人は“吸血鬼”だ。
因みに吸血鬼だというのに日の光に弱いなんて事実は無い。
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私は過去の記憶を覚えていない。
ある日この広い屋敷で目を覚ました私は何一つ覚えていなかった。自分の名前すらも。
身体が重く、ベッドからも起き上がれない事に困惑していた時に部屋の中に入ってきたのが先生だった。誰ですか?と訪ねた私を見て記憶が無い事を理解したのであろうその人は一瞬戸惑うように顔が強張り綺麗な赤い瞳が揺れた。しかしすぐに取り繕うとすぐに検診?をして日常生活に差し支えがない事がわかるとそのまま状況の説明をしてくれた。
私は病気に罹ってしまったらしい。その治療の副作用で記憶を無くしてしまったのだとか。そして目の前の男性は幼い頃に身寄りのない私を拾った保護者のような存在だったらしい。
私の名前はノラだと教えてもらい私が記憶を失う前は彼の事を先生と呼んでいたと聞いてから私の中で彼は“先生”になった。未だに先生の名前は知らない、興味が無かったわけではなかったが尋ねた事もない。
後に彼が優れた魔法使いの吸血鬼で私が碌に魔力も持たないただの人間だと知った時、何故彼が私の保護者などをしているのかと疑問に思ったし有り体に言えば先生は怪しい人、否怪しい吸血鬼だ。
私を外に連れ出そうとはせず、ネットに繋がっている情報端末に触れるのを駄目とはしないが嫌がっている。
しかし、先生と共に暮らす事に不快感は無く、先生と出会ったその日から私は不思議な程に彼に安心感を覚えていて、どこかで「この人は大丈夫」と囁く声が聞こえた気がして、これを私は記憶を無くす前の自分が先生に大きな信頼を寄せていた記憶の名残りではないかと考えてから、それ以上は何も考えないことにした。
なにせ先生にとって私は生徒で娘でペットのようなものらしいので。彼にとっていい子であろう。先生がそれを望むなら。
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先生は長い時を生きた吸血鬼であると同時に大変高名な魔法使いらしい。私は外の世界を知らない世間知らずのため比較しようもないのだが自信満々に先生が自称していたのできっとそうなのだろう。何度も言ってくるのはどうにも煩わしく感じるがこの広い屋敷を先生一人の魔法で管理している事を考えるととても凄い事だと思った。
眠る時間になるといいようの無い不安に襲われる時がある。先生の事は信頼しているが故に疑問に思うことが沢山ある。何故先生はこの閉ざされた空間の中で私と二人で暮らしているのだろう?魔法があるのだ。先生は一人で何でもできる。血の繋がりもなく、記憶が無い、魔法も使えない、先生と比べれば何もできない。私に居場所を提供して養ってくれる理由はなんなのだろう。
……いつか、捨てられるんだろうか?いつもそこまで思いついてしまうと恐怖と不安で押しつぶされそうになる。布団にくるまって早く寝てしまえと考えるがこういう時に限って眠れやしないのだ。
そうしていると何故わかるのか毎回先生はすぐに私の部屋の前にやってきて私に声をかける。出迎えた私の頭を優しく撫でると温かい飲み物を用意して私が眠るまで傍にいてくれる。
酷いときには一緒に眠ってくれる先生は随分と世間のイメージする吸血鬼像から離れていると思う。
「先生はどうして私がその、悩んでたってわかるんですか?」
「私は先生ですから、わからない事なんて無いんですよ」
……絶対に嘘。
趣味の読書中に話の展開が思わぬ方向へ向かったのか途中まで時間を忘れるほど熱中していた先生が読了後に「何故……」ともの凄く落ち込んでいたし、お世話してる植物が何故か虹色に輝き始めたときは先生と一緒に首を傾げた。
長く生きた先生にもわからない事なんて沢山あるだろうに本当に誤魔化せるとは思っていないだろうが世間知らずの私を揶揄って遊ぶのだ。何度先生の冗談を鵜呑みにして後から「本気で信じてたんですか?」と聞かれて恥をかいたことか。
────こっちは真剣に聞いてるのに!
私が不満気な表情を向けている事に気が付いたのだろう。まじまじとこちらを観察した後に機嫌よく笑みを浮かべて「早く寝ちゃいなさい」と言った。大人しくしたがって目を閉じると先ほどまでの不安が消えている事に気が付く。
……うん、先生はきっとそのためにわざと揶揄って不安を消してくれたのだろう。でも、これも一時的なもの、私はすぐにまた不安に駆られるんだろう。なんて面倒くさいの。
先生はこんなに面倒くさい私とどうして一緒にいてくれるんですか?記憶が戻った時とは違って身体も自由に動く。先生は私を放り出したって、いいのに。どうして何年も一緒に暮らしてくれているのかわからなくて、いつ放り出されるのかが怖くて仕方がないんです。
何も言わずに優しく撫でてくれる先生の手に泣きそうになりながら目を閉じると眠れなかったのが不思議なくらい私は自然に眠りに入った。