第一話 この夏はいつまで続くのでしょうか(1)
先月まで初々しさと制服の重さを忘れてしまっていたが、夏休みが終わって最初の登校日にそれを思い出した。ダル着だけで夏を過ごしたせいもあってか、より一層と制服が固く感じられた。肩のあたりが特に馴染まない。そうした気怠さと久しぶりの学校に登校して自分の席に着席すると、記憶よりも小さな椅子が制服以上に拘束感を与えてきた。
狭いような広いような教室に閉じ込められたかと思えば、これまた広いような狭いような体育館に連れ出され、そういえば校長はあんな声だった気がすると思いながら、どこか聞き覚えのある話を聞かされて。始業式という大層な名前はついているが、名前のない平日よりも退屈な時間が過ぎていった。
そんなこんながようやく終わって、やっと帰れると思った時だった。突然、担任と目があった。
「豆富田は後で私のところにくるように」
「ーーえ?」
「え、じゃなくて返事は、はい、だ。それじゃあ、委員長」
僕の疑問符と間抜けな顔なんてお構いなしに委員長が「起立」と言って、帰りの挨拶が終わった。
「なに? なんかやらかしたの?」
先生に呼び出された理由が分からずに呆然とつっ立っていると、ニヤニヤと嬉しそうな笑みを浮かべた山精秋人がやってきて、横腹を肘で刺してきた。
「マジで理由が分からん」僕は何も包み隠さずに正直に話した。
「課題とかだったら答えの丸写しだから、まあ呼び出されても理解できるけど、まさかそのことじゃないだろうし」
先生がさっき提出したばっかりの課題を開いている様子はなかったはずだ。
「もしそうだったら、どうせ秋人も呼び出されてるはずだろ?」
彼とは中学からの仲で不真面目さについてはよく理解しているつもりだ。
「いやー? そんなことないけどなー。俺はちゃんとやったし」
「そんな冗談無理があるって。まあ、とりあえず行ってくる」
「怒られたら慰めてやるよ」
「何もやらかしてなんかないはずだけど」
そう言って担任の箒神心先生の表情を伺いながら、教卓の方へと向かった。表情はいたって普通で、怒っている様子ではない。それではいったいどうして呼び出されたのだろうか。
「な、なんでしょう?」
生徒との距離感が近く親しみやすいで定評のある、そしてシンプルに顔が可愛いという理由で男子から熱狂的な支持を受けている教師を目の前に少し緊張しながら、僕は様子を探るように少し頭を下げながら言った。申し訳なさそうな顔を貼り付けながらも、校舎ではあまり見ることのない茶色がかった髪が美しく輝いていて目を奪われた。
「あー、豆富田ね」
言いながら、箒神先生が僕の肩を両手で優しく叩いた。生徒との距離感が近いとはこういうことで、決して生徒から心ちゃんなんて下の名前で容易く呼ばれるようなタイプではない。もちろん、そんな愛称で呼ぶキラキラしたザ一軍生徒もいるがーー。
物理的に生徒との距離が近いのだ。良くも悪くも性格が図太い。好き嫌いあるだろうが、僕にとっては親しみやすかった。なんというか、教師らしい独特の特別感、異質感がない。
「なんですか?」怒っていないと分かって、表情筋を柔らげながら訊いた。
「部活」口を大きく開いて端的に言ってきた。
「あー。やっぱり入らないとダメですか?」
「校則で決まっているからねー。一学期は黙認してきたけど、学年主任が豆富田に目をつけたらしくて」
ここ嘘面高校は校則で全生徒例外なく部活に入ることが強制されている。一学期まではのらりくらりとうまいこと回避してきたが、どうやらそれが許されなくなってきたらしい。
「朝から学年主任が、豆富田を部活に入れさせろって小うるさくて。私の為を思って部活に入ってくれ」
「なんですかそれ。私のためって」笑って言った。
「まあ、とりあえず今週中でいいから。まったく、部活が強制なんて時代遅れな高校だと私も思うけど」
「そう思うなら許してくださいよ」
「私の職員室での時間を快適にさせてくれ。学年主任の足音が嫌に響いて近づいてくることになるんだ」
「僕の放課後の時間だって快適にさせてくださいよ」
「そんなん知らん。とりあえず、よろしくたのんだ」
そう言って空欄だらけの入部届を胸に押し付けてきたかと思えば、担任は僕の体を回転させて背中を押した。
「今週中には入部届出せよー」
「はーい。わかりましたー」
まあ、こればっかりは仕方がないか。むしろ一学期まで帰宅部でいることを許されただけ幸運に思おう。とくに放課後何かをしているわけでもなかったし、新しい趣味が出来るとここは前向きに考えるしかないだろう。
そうして気持ちを切り替えて机の上に置いてきたリュックを取りに向かうと、そこにはまだ秋人がいた。
「なんだったの?」
「部活のこと」
「あー、ついに見つかったか」
「うん。何にしようかな」
「それなら、うち入れよ
「秋人の部活ってなんだっけ。カードゲーム部だっけ?」
「おう。楽だぞ」
たしか秋人は中学までサッカー部で、高校では走りたくないという理由で文化部を選んだはずだ。サッカー部でサイドバックをやらされて苦しかったという愚痴を何度聞いたことか。あまりスポーツに詳しくないから知らないが、サイドバックというのは攻守どちらにも関わるポジションで、ひたすらに走り回されるらしい。そんな経験があったら、高校の部活では楽をしたいというのも納得だ。僕も楽な部活に入りたいところだが。
「カードゲーム部ってずっとポーカーしてるんだろ?」
「おう」
「なんか嫌」
「なんかって、なんでだよ」
「イメージ悪いじゃん」
ポーカーといえば賭け事の温床だ。つまりこの国の法律、価値観から言えば敵だ。ポーカーは敵だ。
「ポーカー部を名乗らずにカードゲーム部を名乗ってるのってもうそう言うことでしょ」
「まあ、ポーカーやってるって言ったらサングラスとかつけちゃったりして少しイキってるみたいに思われそうだけども」
「そんなことは言っていない」
個人の価値観でポーカーを敵に回さないでいただきたい。あくまでもギャンブル的な要素が、賭博罪的なあれで、国の価値観的にあまり良いイメージがないよね、と言いたかっただけなのだ。
「まあ、とりあえずやってみようぜ。先輩もいい人だし」
「うーん」
競馬やパチンコといったギャンブル全般にあまり良いイメージがない僕に、そのギャンブルの代名詞的なポーカーというものがどうにも性に合わず、入部することを躊躇っていると、跳ねるようにして耳馴染みの良いスリッパの音が近付いてきた。
このクラスのもう一人のカードゲーム部員、一反柚葉のものだ。好きな人の足音は、みんなと同じスリッパを履いていても分かるものである。
「豆富田くん、カードゲーム部に入るの?」
一反さんのことが好きと言いながら、授業の班活動以外で話しかけられるのはこれが初めてだった。彼女のことを好きになったのは一目惚れで、今までずっと遠いところから見ているだけだったのだ。高校の入試の日に彼女のことを見かけて、それからずっと顔を覚えていて、入学式の日に同じクラスになれたことを知って、神様はいると信じたものだ。肩まで伸びた淡い黒髪が風に靡く様にどれほど息を飲んだか。
「おい」
僕が浸っていると、横腹を突いて現実を戻してくれたのは秋人だった。こいつは僕の心を知っているので、イヤな笑みを浮かべている。最初からこれを言っておけば良かったとでも言いたげな顔をしながら、一反さんの方に顔を向けろと言わんばかりに首で合図をしてきた。
「前々から入ろうかなって気になってたんだ」
僕は平然と嘘をついた。ポーカーの才能が開花した瞬間かもしれない。これをポーカーフェイスというのだろう。