14.メルクリールの出自
メルクリールは混乱の中、必死で頭を振った。
「あ、ありえません。私、人間ですもの……」
けれどレオニスは真剣そのものだった。
「だがこの匂いは――間違うわけがない。獣人は番にだけ、特別な匂いを感じるものだ。今、発情を抑える特攻薬を飲んだ。君も、少し楽になったのでは?」
「え……?」
「何か匂いがしなかったか?」
「それは、薔薇の香りがしました。で、でも、レオニス様の香水ですよね? いつもしていますもの!」
するとレオニスの表情がすっと落ちた。
それからゆっくりと彼が微笑む。
「私は香水をつけていないよ」
「……え?」
「もちろん獣人だったら私の匂いを感じられるだろう。だが君は『人間』だ。それなのに匂いが分かると言ったら――」
レオニスが、床に座り込んだままのメルクリールの前に片膝をつく。
彼の手には、メルクリールの指輪があった。
「この指輪は君のだよね?」
「あ、はい、ありがとうございます―――…」
指輪をレオニスから渡された途端、薔薇の香りが霧散する。まったくなくなったわけではないが、いつもくらいには落ち着く。
(え、どういうこと……?)
だがどうやらそれはメルクリールだけでなく、レオニスも同じだったらしい。彼の獅子の耳はぴんと立ち、尻尾は上下左右に揺れている。
「君の匂いがしなくなった」
「レオニス様も?」
「君も?」
呆然としながら二人で見つめ合う。レオニスの視線がすっとメルクリールの手の中にある指輪に落ちる。
「その指輪を見せてもらっても?」
「はい」
手のひらに載せて差し出すと、レオニスが指輪をためつすがめつ眺める。
(あ、薔薇の香りがする……)
指輪を彼に渡した瞬間から、香りが濃くなる。この香りをずっとかいでいたいと思わせるような、酔わせるような香り。
(つ、番、ですって、私とレオニス様が……? そんな、わけ、そんなわけあるわけないでしょう!?)
しかし理性は否定し続ける。
「仕掛けがあるな」
「え?」
「もし開くなら、開けてもいいか?」
「は、はい、もちろん……!」
レオニスは指輪を手にしたまま執務机へ向かった。引き出しを開け、見慣れない器具を取り出す。その器具を指輪の表面に当てて操作している。
「開いたぞ」
「え?」
彼がやってきて、手のひらの上に置いた指輪を差し出してくれた。どういうわけが指輪の表面が開いていた。
「これは、家紋、だろうか?」
「家紋……!?」
ぱっと見下ろすと、指輪の表面の裏側に見たこともない紋が刻まれていた。確かに、レオニスの言う通り家紋のようにも見える。
(ど……どういう、こと……どういうことなの……?)
もう既に、理解の範囲をゆうに越えている。メルクリールの思考は、崩壊寸前だった。
「この家紋はこの国の貴族のものではないな」
じっと見つめていたレオニスが断言する。
「君が生まれた時にこの指輪を持っていた、だったね?」
「はい……」
呆然しながら、肯定する。
「先ほどの器具は公爵家に伝わるもので、内密なやり取りをする際に使うものだ。金属にほんのわずかな歪みがあれば、それをきっかけに開けられる仕組みになっている。要するに、この国でも貴族だけが使う手段ということだ」
メルクリールは力なく頷いた。
きっとそうなのだろう、養護院のシスターたちですら、この指輪にからくりがあるだなんて知らなかったから。レオニスだから見抜けたのに違いない。
「この指輪を持つと、君の匂いが隠される。こんな不思議なことが偶然で済ませていいわけがない――少し、調べさせてもらってもいいだろうか?」
青ざめたメルクリールは、呆然としたまま答えることが出来なかった。するとレオニスが恭しい手つきで、彼女をもう一度ソファに座らせてくれた。
「ごめん、驚かせたな」
いつものように優しいレオニスの言葉に、動揺のあまりじわっと涙が浮かぶ。
「レオニス様のせいではありません」
「そう言ってくれてありがとう。君にハーブティーを淹れよう。少しは落ち着くんじゃないかな」
レオニスが空いているカップにハーブティーを淹れてくれた。それを差し出しながら、彼が口を開く。
「指輪は君を守ってくれているのだから、持っておきたまえ。鎖が切れてしまったようだから、新しいのを用意するよ」
「……はい、ありがとう、ございます……」
メルクリールは渡されたカップをぐっと握りしめる。
「できたら、この刻印の出どころを調べさせてもらいたいのだが、構わない?」
「――ッ」
探るように尋ねられ、彼女は息を呑む。
親切な申し出だと思った。
けれど、即答は出来なかった。
(……側仕えの素性を調べたいと思われるのは当然よね……)
もともと誰も彼女の出自は知らなかった。だからこそ、メルクリール本人の適性を考えて、レオニスの側仕えに取り立ててくれた。それが、メルクリールの両親がもしかしたら、それこそ犯罪者かもしれないとなったら――。ローゼンハイム家に迷惑をかけるようなことがあってはならない。
「ご迷惑、ではないのなら――…」
やがてそう答えると、じっと彼女を見つめていたレオニスが頷く。
「では刻印を軽くスケッチさせてもらってもいいかな?」
「はい、お願い致します」
それからレオニスが渡してくれた鎖を使って、指輪をいつものようにネックレスとして身につけると、馴染んだそれはしっくりとくる。
(でも、ただの指輪じゃなかった……みたい)
レオニスが指輪を握りしめたメルクリールの手を、ぽんと叩いた。
(……、励ましてくださっている……、ありがたい)
彼は余計なことを言わず、そっと寄り添ってくれている。メルクリールはおずおずと口元に笑みを浮かべた。
「狼狽してしまってごめんなさい。ちゃんとお仕事に戻ります」
「君は普段十分やってくれている――少しソファに腰かけたらどうだい」
対面のソファに腰かけたレオニスに勧められた。彼の気遣いが、メルクリールの混乱した心を宥めてくれた。しばらくすると、ようやく息が楽になってきた。
「よかった、さっきよりずっと顔色がいい」
安心したようにレオニスが呟いた。
「これだけは忘れないでくれるか。私は、君が欲しいってこと。どんな君であってもね」




