第四話 私は婚約破棄を突き付けてきた元婚約者の父親に謝罪される。
やはり、私は自分で思っていたよりも重大なダメージを、あの無茶で、肉体に負ってしまっていたらしい。
ただ、幸いにも、命は落とさずに済んだし、体の多くに火傷を負い、骨も何本か折れ、血液も相当な量、失ってしまったが、リハビリを地道に続ければ、日常生活に戻れる可能性は高まるようだ。
私の治療を担当してくれた医師、大森先生の丁寧な説明を聞きながら、私は、運が良かった、と心の底から思う。
自分に婚約破棄を一方的に叩きつけてきた雪乃の遺体の一部を、良綱さんの元に持ち帰ろうとする、そんな無茶をしなければ負わずに済んだ怪我だ、全て。
ある意味では、自業自得にも関わらず、死んでない、そして、歯を食い縛って、血反吐を吐くほどの努力をすれば、日常生活と仕事に復帰できるのだから、私は運が良いんじゃないだろうか。
一応、毎年、初詣は欠かさず、大きなプロジェクトに取り組む際は、近場の神社に出向き、仕事の成功を祈り、望んだ以上の結果を、同僚の皆がサポートしてくれたおかげで出せた時は、報告と感謝を兼ね、高級な日本酒を供物として捧げていた。
信心深い方ではないにしろ、そういう事を欠かしていなかったからかな、と考えた私は、自分だけで動けるようになったら、やはり、神社に足を運び、祀られている神様に「ありがとうございます」を言いに行くべきだな、と決めていた。
その間に、大森先生は、私への説明を終えていた。
まだ、しばらくは無理だが、安静にして、体力が回復してきたら、本格的なリハビリを開始するようになるようだ。
それまでは、ともかく、ベッドの上で大人しくしているしかないらしい。
仕事中毒、そこまで酷い事にはなっていないにしろ、、元々、大人しくしているのも得意な方じゃないので、絶対安静、を大森先生から告げられた私は気落ちしてしまう。
それでは、主宮さん、お大事に、と言ってくれた大森先生には、私は頭を下げる。
本来であれば、ちゃんと、声に出して、大森先生に礼を言うべきなのだが、喉も煙と熱で痛めてしまったし、何より、この一件の前に、私は顔を怪我していたから、まだ、上手く発声が叶わなかった。
だから、せめて、辛うじて動かせる体で、大森先生に、自分が彼に感謝していることを伝えようとした。
どうにか、大森先生に、私の意図は伝わったようで、彼が私の右肩を、ポンポンと軽く叩いた。
大森先生が病室を出ていくと、しばらくしてから、良綱さん達が戻ってきた。
そう、私が割り当てられた、個室の大きい病室には、良綱さんと涼子ちゃんが戻ってきてしまったのだ。
てっきり、涼子ちゃんは、私が診察を受けている間に、良綱さんから雷を落とされて、渋々、学校に行ったのだろう、私は、そう思っていた。
けれど、涼子ちゃんは、反省の気配を身から醸しながらも、学校に行く、ではなく、私を改めて見舞う方を選択したようだった。
一体、どうしてだ、と私が困惑している間に、良綱さんの方から、私の疑問に、早速、答えてくれた。
まぁ、答え、と言えるようなものではなかったし、私も薄々、予想は付いていたんだが。
「すまない、主宮君・・・説得しきれなかった」
大方、そんな感じだろうな、と察しはしていた。
涼子ちゃん自身は、絶対に、決して、頑として認めないだろうが、彼女も、雪乃の妹だけあって、我は強い方だ。
理由はサッパリが、絶対に帰らない、と自分で決めた涼子ちゃんは、いくら、良綱さんが何を言った所で、帰ろうとはしないだろう。
良綱さんも、大企業のトップだけあって、粘り強い方ではあるにしろ、今回は、涼子ちゃんに軍配が上がったようだ。
「お前の担任の方から、一佐に預けている私のスマフォに、お前が来ていない、と連絡が来た時には、もしや、と思ったが、本当に、主宮君の所に来ていたとはな・・・」
「だって、真宵お兄ちゃんが心配だったんだもん」
今、私は包帯を両目に巻かれてしまっているが、拗ねたように、ちょっと厚い唇を尖らせた、涼子ちゃんの可愛らしい表情が容易に思い浮かべられた。
「お前の気持ちは解かる。
主宮君が事故に遭ったんだから、大人しくは出来ないだろう。
だがな、お前が主宮君を心配するように、私たちもお前の事を心配したんだぞ」
良綱さんの言葉に、涼子ちゃんは申し訳なさそうに、「ごめんなさい、パパ」と頭を深々と下げたようだ。
意固地になりやすい一面はあるにしろ、基本的には、相手の心情をしっかりと汲み、自分が謝るべき時、と判断した時は、素直に頭を下げられる良い子なのだ、涼子ちゃんは。
良綱さんは実際に、私は胸の中だけで安堵の息を漏らした。
ただ、私達は、まだ、涼子ちゃんを甘く見ていたのかもしれない。
当人は、決して、絶対に、頑として認めないだろうが、やはり、涼子ちゃんは、あの雪乃の妹だ。
我の強さは、決して、雪乃に負けていなかった。
「まあ、こうやって、主宮君は、今日、ちゃんと目を覚ましたんだ。
明日からは、しっかりと学校に行きなさい、涼子。
週末になったら、一佐に行って、送り迎えをさせるから」
どうやら、私が今、入院している病院は、住んでいた町、茂手から離れた場所にあるらしい。
良綱さんの秘書である一佐さんに車で送迎させるとなると、それなりの距離があるのか、と思った時点で、私は、ふと疑問が芽生えた。
一体、涼子ちゃんは、この病院に、どうやって、来たんだろうか。
とは言え、涼子ちゃんだって、子供ではない。
私には、この病院が、どこにあるのか、が解らないけれど、涼子ちゃんは違う。
良綱さん達の話に聞き耳を立てたり、彼のスマフォを密かにチェックすれば、場所を探り当てられただろう。
その手の行動が大胆かつ迅速、そして、ノー躊躇なのが、涼子ちゃんだ。
名家のお嬢様であっても、電車やバスの乗り方も知っているだろうし、お小遣いも、それなりに貰っているはずだから、タクシーを使った可能性もあるだろう。
だから、場所が判りさえすれば、涼子ちゃんはどうにか出来たのだろう。
しかし、やはり、私ごときの見舞いで、学校をサボらせ、しかも、お小遣いまで交通費に使わせてしまったのか、そう思うと、胸が罪悪感にチクチクと刺されてしまう。
今の私は声こそ出ないが、どうにか、涼子ちゃんに、学校へ行くよう、言わねば、と思った矢先だった、涼子ちゃんが「嫌」とハッキリ、良綱さんに対し、告げたのは。
「・・・・・・何?」
意識が涼子ちゃんから、他の何かに逸れていたのか、良綱さんは、涼子ちゃんが、何と言ったのか、思わず、聞き返してしまったようだ。
きっと、今の良綱さんは、呆気に取られた表情を浮かべているのだろう。
この時ばかりは、私も視覚を封じられている現状に、口惜しさを覚えてしまったくらいだ。
私の後悔を他所に、涼子ちゃんは、女子高校生とは思えぬほど、凛とした気迫を発する。
「パパ、私は、真宵お兄ちゃんが退院するまで、この病院に、毎日、来るよ。
一佐さんの送り迎えもいらない。
自分で、電車とバスで来るから大丈夫」
きっと、今、涼子ちゃんは顔を上げ、しっかりと、良綱さんの目を見ているんだろう。
涼子ちゃんの性格を考えると、頭を下げたままではなく、相手の目を真っ直ぐに見ている、と私には察せた。
確かに、涼子ちゃんは、雪乃と同じくらい、我は強い。
けれど、雪乃と違い、涼子ちゃんは、我儘を言う相手に対し、頭を下げられるし、自分の意見を述べる時は、ちゃんと、相手と対面できる。
高慢な雪乃は、金持ちの美人である自分の命令を、相手が聞くのは当たり前だ、と驕っているから、相手に頭を下げる事もしなかったし、命令する場合も、相手の顔すら一瞥していなかった。
雪乃と涼子ちゃんは、姉妹ではあるにしろ、やはり、全然、違うのだな、と私は実感する。
「この病院には、介助のプロと言っても差し支えない、一流の看護師が大勢、いるんだぞ、涼子。
なのに、お前がいて、何が出来るんだ?」
「何が出来るのか、それは、アタシにも、今は分かんないよ、パパ。
でも、真宵お兄ちゃんの為に何もしないで、学校に行っていたら、私は絶対、後悔するし、自分を嫌いになっちゃうもん」
さすがに、空気がビリビリと震えている、そう錯覚してしまうほどの圧ではないにしろ、涼子ちゃんは一歩も引かない姿勢を示しているようだった、表情だけでなく、全身で。
見えなくても解かる、今、良綱さんは、自分の正論に首を縦に振らない娘の頑固っぷりに対して苦々しさを感じると同時に、いつの間にか、成長していた娘の心に対して喜びを覚え、何とも形容しがたい表情を浮かべているんだろう。
改めて、今、目が見えない事に、私は口惜しさを抱いてしまう。
「涼子」
「何、パパ」
「この事に関しては、家に帰ってから、ママも含めて、一緒に、ちゃんと、結論が出るまで話す。
それでいいか?」
自分の意志を押し通す強さを持ってはいるが、他者に対して気も遣える涼子ちゃん。
いくら、大病院のグレードが高い個室とは言え、あまり騒ぐと、迷惑をかけてしまう。
何より、先程、目を覚ましたばかりの私の側で、父親と口論するのは、私の体調に障る、と判断してくれたらしい。
全く悩む素振りもなく、涼子ちゃんは「解った」と素直に頷いてくれた。
次女と違い、聞き分けの良い末娘に、良綱さんはホッとしただろうが、私も胸の内で安堵の息を漏らしていたのである。
何せ、バカをやらかした私の所為で、父娘の絆に大きな亀裂が入りかけ、それを、どうにか回避できたんだから、安堵の息くらいは漏れてしまうだろう。
ある意味、先延ばししたようなものではあるが、娘が落ち着いてくれたので、良綱さんは気持ちを切り替え、視線を私の方に向けた。
視覚が封じられている分、気配を感じるセンスが鋭敏になっているのか、私は良綱さんが険しい表情で、私を見ているのが察せた。
良綱さんの雰囲気が一変した事に、涼子ちゃんも気付いているようで、先程とは違う緊張を感じているのか、健康的な肢体をギュッと縮こまらせている。
どうやら、良綱さんが睨んで、涼子ちゃんにプレッシャーをかけていた。
それでも、相手の意を汲める涼子ちゃんは、余計な事を言いはしないが、この病室から出ていく気はないようだった。
良綱さんも、涼子ちゃんが椅子から腰を上げないのを見て、眉を顰めたようだが、ここで、より強いプレッシャーをかけようが、実際、「出ていきなさい」と言っても、涼子ちゃんが動かないのを察しているのか、小さな溜息を漏らすと、改めて、私に向き直った。
「ひとまず、峠は越えたようだね」
良綱さんの言葉に、私が頷こうとしたタイミングで、唐突に、涼子ちゃんが動いた。
このタイミングで、部屋を出ていく気になったのか、と軽く驚いた私に、涼子ちゃんは、逆に、私に近付いてきて、右手を取ってきたではないか。
その行動の意図が読めず、私が戸惑っていると、涼子ちゃんが強張った声で話しかけてきた。
「真宵お兄ちゃん、アタシが伝えてあげる」
涼子ちゃんは、先程のように、私が自分の掌にメッセージを書く事を望んでいるようだ。
良綱さんは、今の私が火傷のダメージで喋れない事を察しているから、元より、対話をする気はなく、一方的に、自分の意見を伝えるだけのつもりだったんじゃないだろうか。
なので、こう言ってしまうとアレだが、涼子ちゃんの気遣いは、全くではないにしろ、必要性は低い。
さりとて、私も、涼子ちゃんの優しさを無碍にしたくなかった。
所詮、私は、親しい人に嫌われるのが恐い、小さな人間である。
少し躊躇った私は、ぎこちなく、指を動かして、涼子ちゃんの掌に、良綱さんの言葉への返答を書き記す。
「おかげさまで、だって、パパ」
「そうか」と、良綱さんも、どこか諦めきった様子で頷いたようだ。
涼子ちゃんを間に挟む事で、どうにも、対話のテンポは悪くなってしまうが、私と良綱さんは、お互い、涼子ちゃんに何も言えない。
致し方ない、とお互いに割り切ったのを感じながら、私達は話を続ける事にした。
「とは言え、主宮君、今の君は重傷者だ。
怪我が、もう少し軽かったら、拳骨か平手打ちの一つでもくれていたんだがな。
本音を言えば、怪我に構わず、拳骨を落としたいくらいだよ」
良綱さんの物騒な発言に、涼子ちゃんが「なっ」と反応したのは、憤りだけじゃなく、彼女自身が、幼い頃、良綱さんに拳骨を落とされたからか。
あくまで、私も、酒の出た席で、一佐さんの部下である大沼さんから聞いた話でしかないが、涼子ちゃんは、小学生の頃、周りが制止するのも聞かず、愛猫を助けるべく、木登りに挑戦したらしい。
昔から、涼子ちゃんは運動神経が良かったらしいのだが、やはり、10m近い木に登るには、女子小学生だった彼女の身体能力は不足していたらしい。
半ば近くまで、どうにか登っただけでも大したもんだが、やはり、そこで握力やバランス感覚が限界を迎えてしまい、涼子ちゃんは木の枝から落ちてしまったそうだ。
地面に叩きつけられる寸前、涼子ちゃんを助けたのが、今はメイド長で、当時はメイド長の補佐をしていた小丸さんだった。
確かに、涼子ちゃんは年齢こそ、まだ一桁だったが、他の女子小学生よりも体格は良かったらしい。
まぁ、ハッキリ言ってしまえば、それなりに体重があったそうだ。
その体重に、高さと落下速度も加わっていた。
ある程度、頭を使える人間であれば、衝突時の数値を正確に出せるだろう。
小丸さんが、そんな計算をしたか、は定かではない。
きっと、小丸さんはそんな事に時間を使わず、体が反射的に動いたに違いない。
涼子ちゃんを受け止めれば、自分が怪我をする、と理解していても、その場にいた誰よりも迅速に動き出し、何の躊躇いもなしに、涼子ちゃんをキャッチした小丸さんはメイドの鑑だ、と私は思った、それを聞いた際。
結果、涼子ちゃんは擦り傷こそ負っただけで済み、小丸さんも右腕上腕部と肋骨を二本を折り、腰を痛めただけで済んだそうだ。
その夜、会社から帰ってきた良綱さんは、この一件を報告され、押し入れの中で反省させられていた涼子ちゃんを、自分の前に連れて来させた。
そして、拳骨を一発ばかり、頭に落として、あまりの痛みに火が付いたように泣き出した涼子ちゃんに一瞥もくれず、奥さんに「今月と来月の小遣いは無しにしろ」と告げたらしい。
拳骨のみで余計な説教はせず、それ以上の罰は、涼子ちゃんに与えなかった良綱さん。
きっと、これは、涼子ちゃんに、何が悪かったのか、を自分の頭と心でちゃんと考えさせたかったんだろう、と私は推測している。
それ以来、涼子ちゃんは無謀な事は控えるようになった、と一佐さん達は感慨深げに言っていた。
控えるようになっただけで、0になっていないのは、今回、私を見舞うために学校をサボった事からも容易に窺える。
きっと、帰ったら、涼子ちゃんは、小丸さんにお説教されるに違いなかった。
自分が私に心配されているのを感じ取ったのか、涼子ちゃんは、「どうしたの、真宵お兄ちゃん?」と首を傾げた。
何でもないよ、と私は首を横に振ったが、涼子ちゃんは、訝し気な表情を浮かべているようだった。
それでも、私と良綱さんの話は邪魔できない、と思ったのか、追及はしてこなかった。
「私に拳骨か平手打ちされる理由は、自分でも解っているだろう、主宮君」
「・・・・・・もちろんです、だってさ、パパ」
きっと、涼子ちゃんも、私が今、良綱さんを説教モードにしてしまった理由を察しているのだろう、あえて、淡々とした調子で伝えているようだ。
「なら良かったよ」
改めて、良綱さん達を心配させてしまった事に、私は罪悪感を覚えてしまう。
「主宮君、ハッキリ言うが、君はバカだ」
さすがに、涼子ちゃんも、良綱さんの言葉を否定できず、私も擁護できないらしく、「うーん」と唸ってしまった。
『仰る通りです』
「君が、あんなバカをやった理由、それ自体を察せる上で、あえて聞くが、どうして、あんな事をしたんだ、主宮君」
私は少しの間、答えの言葉に迷ったが、この期に及んで、良綱さんを相手に取り繕っても意味はない、と判断する。
『遺体の無い、家族の葬式は辛いですから』
「ッッッ」
涼子ちゃんは、私の答えに息を呑んだが、それでも、気丈に、それを良綱さんに、きちんと、正確に伝えてくれた。
やはり、この子は人の心を想える良い子だ。
つくづく、雪乃とは雲泥の差だな、と私が感心していると、私の答えを涼子ちゃんから伝えられた良綱さんが、「やはりな」と苦々しい声を漏らす。
「確か、君は、あの大災害で家族を全て失っているんだったな」
「え!?」
どうやら、涼子ちゃんは、私が、未だに完全な復興に到っていないどころか、ほぼ立ち入り禁止のままである、あの地域を襲った大災害の被災者であるのを知らなかったらしい。
むしろ、私の方が、涼子ちゃんが驚いた反応に戸惑ってしまったほどだ。
良綱さんも、涼子ちゃんが、私のそれを知らなかった事を把握をしていなかったのか、「何だ、涼子は知らなかったのか」と呟いていた。
悲しみや辛さ、憎しみなどは、とっくに乗り越えているとは言え、わざわざ、他人に吹聴するような過去でもないから、私は良綱さんにも、事の触りくらいしか語っていない。
もっとも、良綱さんは、私を雪乃の婚約者に決める際、私の素行調査などを行っているから、知ってはいただろうが。
いずれにしろ、私の心に刻まれている、未だに塞がり切っていない傷を知らなかったらしい涼子ちゃんは、ショックを隠せないようだった。
それでも、彼女はグッと泣くのを堪えていた。
優しくて強い女の子だ、と涼子ちゃんを好ましく思い、私は自然と、彼女に感謝を示すように、涼子ちゃんの右手を握る、ギュッと。
刹那、涼子ちゃんの手は、思わず、「うわっ」と声を出してしまいそうになるほど熱くなった。
何故に、と私が戸惑い、「大丈夫?」と涼子ちゃんへ問う前に、良綱さんが咳払いをしたので、私は自然と、意識と注意を彼に向けてしまう。
「想定はしていたが、いざ、君から、これを言われてしまうと、些細な事で憤っていた私が悪い、と実感するな」
そんな事は有り得ない。
100%悪いのは、あの状況で、自分にブレーキをかけられなかった私自身だ。
この一件で、良綱さんが非を認める必要は微塵も無いのである。
だから、私は「悪いのは私です」と涼子ちゃんの、まだ熱い掌に書いた。
涼子ちゃんは、私のメッセージにピクッと反応し、何か迷っていたが、やはり、しっかりと伝えてくれた。
「まぁ、君なら、そう言うとは解っていたよ。
そう言うトコが、君の美徳であり、私が高く評価している点の一つ、そして、君が自覚して、直す努力をすべき悪癖でもある」
唐突な褒めと窘めの混じった言葉に、私は狼狽えてしまう。
涼子ちゃんが、良綱さんに同意するように、しきりに頷くのだから、尚更に。
「先に、これを言っておくべきだったな、主宮君」
「?」
「雪乃の首だけでも、あの燃え盛る車から持ち帰ってくれた事、心から感謝する。
家族を代表して言う、ありがとう、主宮君」
良綱さんは頭をしっかりと下げ、張りのある凛とした発声で、私に感謝を示してくれた。
「真宵お兄ちゃん、私からも言わせて。
ホントに、ありがとう」
良綱さんに続くようにして、涼子ちゃんからも、近い距離で礼を言われ、私は気恥ずかしくなってしまった。
すべきじゃないバカをやった、と自覚と猛省をしていたのだから、余計に。
「重ねて言わせてくれ、主宮君。
うちのバカ娘がすまなかった」
良綱さんのこの謝罪が、雪乃の、どのやらかしに対するモノなのか、さすがに私も判断できず、参ってしまった。
そんな私の動揺を悟ったのか、良綱さんは顔を上げないままで、私の疑問に答えてくれた。
「まさか、雪乃が、君に婚約破棄を叩きつけるなんて、予想もしていなかった」
「ハァ!?」
良綱さんの言葉に対し、涼子ちゃんは濃厚な怒気を全身から噴出させた。
気の弱い人間が、今の涼子ちゃんと対峙したら、血の気が引いてしまうか、胸が痛くなって、その場に蹲ってしまうか、そのどちらかだろう。