第一話 私は婚約者を会社の同僚に寝取られる。
恋人に、いきなり、破局を告げられる。
そんな経験をした男性は、少なからずいるだろう。
婚約の段階まで進んでいたにも関わらず、女性の方から「バイバイ」される場合となると、いくらか数は減るにしろ、存在はするんじゃないか。
相手が、自分にお別れを突き付けてきた理由が、他に好きな男が出来た、であるのも珍しくはあるまい。
恋人を、自分から奪っていた男が、自分の会社の同僚であるのも、これまた、起り得るパターンだ。
つまり、私こと主宮真宵は、半年前に両親への挨拶を済ませ、正式に婚約を結び、それを大々的に発表し、結婚式を明日に控えていた、その日、フィアンセである暮林雪乃から喫茶店に呼び出され、そこのオープンテラスで、布袋勇士と隣り合って座る彼女に、婚約だけじゃなく、恋人関係の解消を求められてしまった、どこにでもいる青年男性だ。
人間、あまりにも驚きすぎると、飲んでいた紅茶を口から「だばだば」と溢す事も、勢いも良く噴き出す事もせず、普通にゴクリッと飲み込んでしまうらしい、と私は知った。
こんな状況でも、プロが淹れてくれた、一杯1000円のアールグレイは美味しかった。
「ふぅ」と、美味しい紅茶が発す幸福感に浸るよう、私が息を漏らすのは、決して、現実逃避ではない。
妙に落ち着いている私に、私自身が驚いている一方で、私の目の前に、やけに体をくっつけて座っている雪乃と布袋は、私が平然としているのに眉根をキツく顰めていた。
二人が、ここまで、あからさまに不機嫌さを剥き出しにしているのは、私が醜態を晒すのを楽しみにしていたからだろうか。
とは言え、彼らの期待に応えられなかった、その点に申し訳なさを抱くほど、私もお人好しではない。
過剰なリアクションを起こさなかったのは、突拍子が無さ過ぎて、とんでもない事を言い出した雪乃たちに怒りよりも、呆れを強く感じていたからかもしれない。
先にも書いたが、私は、この時、既に、雪乃の両親に結婚の挨拶を済ませてしまっていた。
正確に言うと、私は、雪乃の父親であり、私が勤めている、業界でも一、二を争う規模である文具メーカーの社長の暮林良綱氏に、どういう訳だか、気に入られており、次女である雪乃を紹介され、彼に半ば頼まれるような形で、結婚を前提にした交際をスタートさせていた。
だから、結婚の挨拶も、よくある、「お父さん、娘さんを僕にください」ではなく、それなりに豪華な規模の結婚式を催せるだけの資金が溜まった事を報告する、そんな感じだった。
良綱氏と、雪乃の母親である麻由里さんは、私達が出すわよ、と言ってくれたのだが、男として、結婚式の資金くらいは、自分で出したかった。
時代錯誤と捉われても不思議じゃない、私の意地を、これまた、雪乃の両親は高く評価してくれ、私はお二人に、ますます気に入られた。
いや、私を気に入ってくれたのは、雪乃の両親だけじゃなく、暮林家の長女である苺さんと、苺さんの夫である敏さん、三女の涼子ちゃんも、だ。
どうして、皆さんが、普通の家庭に生まれ、二流半の学歴で、「くればやし」に就職できたのも奇跡に近く、営業成績もそこそこな私を、ここまで高く評価し、家族の新たな一員として迎えてくれるのか、自分でも解らなかったが、温かく歓迎されるのは嬉しかったから、皆さんの期待に応えられるよう、これからも粉骨砕身しよう、と腹を決め直して、雪乃を幸せにしたい、と本気で思っていた。
まぁ、そんな決意も虚しく、その日、もう、笑うしかない、こっぴどいフラれ方をしてしまった訳だが。
今、思い返してみれば、暮林家で唯一、私を一切、歓迎してくれていなかったのは、雪乃だけだった。
私のどこが気に入らなかったのか、今になっては聞く事も出来ないし、今更、興味も無い。
いくつか理由は思いつくにしろ、答え合わせは出来ないのだから。
ただ、今でも、時々は、何故だったのかねぇ、と思い返し、あの日、訊いておけばよかったかな、と軽い後悔を覚える。
自分では落ち着いているつもりでも、何だかんだで、混乱をしていた証拠だろう。
私は私なりに、雪乃が求めるがままに愛情を示し、彼女の要求を可能な限り、叶えてきたつもりだ。
雪乃の奔放な性格を父親として知っており、私に雪乃を押し付けた負い目もあってなのか、良綱氏が便宜を図ってくれなかったら、遅刻と早退、欠勤を繰り返す羽目になっていた私は今ごろ、会社をクビになっていたに違いない。
私はともかくとして、父親にも迷惑をかけても尚、他人の尊厳を踏み躙り、人生をメチャクチャにしても胸を痛めぬ、高慢ちきな性格が全くとして矯正されず、むしろ、酷くなっていた雪乃から解放される、この事態に対して、嬉しさを一切、覚えていなかった、と言ってしまったら、私は大噓付きになってしまうだろう。
しかし、この時の私は、雪乃と同僚の布袋に対する呆れの方が、どの感情よりも大きかったから、喜びは生じていなかったのである。
喜びの代わりに芽生えていたのは、やはり、良綱氏への申し訳なさだった。
良綱氏の、「雪乃を、ほんのわずかでもいいから、真人間にしてくれないか」と頼まれていたにも関わらず、それを実現できなかった罪悪感に、この時、私は胸が痛む一方で、ますます、呆れの念が強まってしまっていた。
雪乃が、元々、折りの合わない良綱氏に半強制されるような形で、凡人の枠を出ない私と交際させられ、結婚する、そこが気に食わなかった、と言うのは理解が及ぶ。
彼女の他人を見下す事で優越感を抱ける性質を考えると、私を良綱氏から紹介された時点で突っ撥ねず、私にヒドい我儘を言いながら、だらだらと交際を続け、良綱氏が私と自分が婚約し、半年後に結婚式を行う、と発表した半年後、別れる、と言ってきたのは、私よりも、良綱氏への嫌がらせに違いなかった。
よりにもよって、結婚式の前日に別れた、となれば、私よりも致命的なダメージを被る事になってしまうのは、あそこまで大仰に発表し、様々な業界の著名人を式に招待している良綱氏だ。
性根が悪い雪乃の退路を断つ目的で、発表を大々的に行ったのだが、却って、それが仇になってしまった形であった。
良くも悪くも、自分の評価がどうなろうと構わない、と投げ遣りになれるほど、好き勝手に生きてきた雪乃が、ここまでやらかすなんて、いくら、聡明な良綱氏たちでも予想が出来るはずが無かった。
この時、初めて、私は、雪乃、この女を心底から大嫌いになっていた。
同時に、やはり、私は呆れたままでもいた。
良綱氏からのお願いで、嫌々もしくは渋々とまでは言わないにしろ、仕事に近い感覚で交際をしていたから、雪乃のしょうもなさは、まぁ、知っていたので、コイツなら、これくらいするか、と納得もしていた。
けれど、布袋が、雪乃の愚行に付き合うとは思ってもいなかった。
だからこそ、怒りよりも遥かに大きい呆れを、布袋の行動に感じてしまったのだ、私は。
私と布袋勇士の関係を、他者に問われたのなら、布袋の方は何と答えるか、想像もつかないが、知人よりは親しい同僚、と私は答えるしかない。
一言で纏めねばならないのならば、友人、その枠に入れてはいた。
しかし、今、雪乃の隣にいる布袋を見る限り、私が「あるかもしれない」と思うようにしていた友情は、どうやら、虚構でしかなかったらしい。
友人の定義、そこは語っても、唯一の無二の正答が出ないだろうが、やはり、同期入社で、デスクが隣で、二つほど仕事を一緒にし、それらを成功に導き、打ち上げで「おめでとう」、「ありがとう」、「おつかれさん」、「これからもよろしく」と言った程度では、ダメだったらしい。
これは、後から、他の同僚に教えて貰ったのだが、布袋は私をライバル視していたそうだ。
私としては、開発部の人々が苦心の末に生み出してくれた、魅力的な文具を効果的な手法でヒットさせ、「くればやし」の名声を高めるのに尽力する仲間の一人、そんな認識であったのだが、布袋にとって、私は目の上のたん瘤的な存在だったのだろう。
私からすれば、布袋の方が能力は上で、良い営業成績を出し、部長からも評価されているように感じていたのだが、他の同僚や部長たちからすると、布袋のやり方は些か強引過ぎで、社外での評判が良くなく、逆に、私の方が堅実に、それでいて、商品の性能を顧客にしっかりと伝えるのが上手かったので、目に見えない成果の方が高く、お客様達の心を掴めていたようだ。
また、布袋は、私が雪乃と交際している事に関しても、周りに汚らしい愚痴を、常々、溢していたそうだ。
そんな僻み多めの罵詈雑言を、私の耳へ一切、入らぬよう、細心の注意を払って、周りに吐露していたのだから、布袋も大したもんである。
まあ、私が、自分に向けられるジェラシーに興味が無いので、布袋がわざと聞こえるように言っていても、聴いていなかった可能性の方が遥かに大きい訳だが。
そんな布袋の、私に向ける敵愾心など、この状況下で一切、気付いていなかった私が察せていたのは、布袋と雪乃の男女の仲、その付き合いの長さが、私のそれを上回っている点だった。
これもまた、後に判明したのだが、雪乃は私を良綱氏に紹介される前から、布袋と肉体関係にあったらしい。
布袋の方は、雪乃の本性を知ってか知らずか、本気で彼女を愛していたようだが、雪乃にとっては、布袋などはセフレの一人に過ぎなかったのだろう。
あれは、そういう女だった。
さすがに、どちらが、先に手を出したのか、誘ったのか、そこまでは定かでないにしろ、私と良綱氏の面子を潰し、顔に泥を塗りたい雪乃と、私に勝ちたいにも関わらず、いつのまにか、社内での評価が一転し、私が「くればやし」の幹部になるのでは、と焦燥感に煽られ、どうにか、私を今の座から蹴落としたい布袋の利が綺麗に一致したのだろう。
布袋の行動、そのどこに私が呆れたか、皆さん、解るだろうか。
愛情と友情、どちらも「薄っぺらい」を通り越して、「無いに等しかった」以上、私には、二人に怒りのぶつけようがない。
ある意味、この結果は、何も見えていなかった私の身から出てしまった錆なのだから。
ただ、良綱氏は、私と違う反応、そして、対処をするに違いない、そう、この時の私は確信し、思わず、身震いしてしまったくらいだ。
ブルった私が、ようやく、悲惨な現実を理解するに至った、そう勘違いした二人は下卑た笑みを浮かべ合っていた。
事実を正しく理解していない二人に、私は、ますます、呆れ返っていた。
良綱氏は、自分の手を噛まれた程度の事じゃ、そこまで、怒りを露わにすまい。
自慢している、そう思われても致し方ない言い方になってしまうが、良綱氏が嚇怒する、そこまでの状態になるのは、私を雪乃と布袋が裏切るからだ。
つまり、布袋は社内での立場どころか、「くればやし」をクビになる可能性があるにも関わらず、雪乃の下品な作戦に協力し、その上、自分自身を窮地に追い込んでいる、そのアホさの度合いが酷すぎて、私は絶句していたのである。
かと言って、やはり、その恐るべき事実を、布袋に教えてやり、助けてやる義理も、私には無かった。
どれほど裏切られても、どこまでも相手を信じ、許し、受け入れる、そんな友情は、私も美しい、とは思うし、そうありたい、とも願う。
ただ、私は、そこまで出来た人間じゃなく、男としては狭量な方なので、布袋に救いの手を差し伸べよう、とは微塵も思えなかった。
浅い付き合いではあったにしろ、絶望のどん底に落ちそうになっている布袋が、自分を助けようとした相手の手を掴んだら、その瞬間に、相手を落とし、自分だけ助かろうとする、浅ましい人間である事くらいは知っていたのだから。
なので、私は、もう一口だけ、美味しい紅茶を飲んでから、勝ち誇ったような汚らしいニタニタ笑いを浮かべている雪乃に尋ねてみた、どうして、このタイミングで、婚約を破棄するのか、と。
雪乃の目論見は、とっくに察しが付いているにしろ、一応は、彼女の口から、それっぽい理由を聞いておきたかったのである、この時の私は。
一体、どんな答えを口にするのだろうか、妙にワクワクしながら待っていると、雪乃は不快感、正確に言えば、道端に落ちているゲ×や犬のク〇のような汚らしいモノが思いがけず、視界に入ってしまった時のような表情を浮かべ、私の顔を指差した。
不快感を剥き出しにしている雪乃が、私の顔のどこを指しているのか、すぐに判り、私は「なるほど」と得心が行った。
心根は醜悪だが、雪乃の見た目は、間違いなく、美人の中でも上位クラスだ。
心の汚さが顔の作りに出やすい者もいるが、雪乃は、そうじゃないらしい。
見目麗しくない上に性根もひん曲がっている者と、見た目は良いが心が腐り切っている者、どちらがマシか、は判断が付かないにしろ、どっちも関わるのは御免被る訳だ。
まぁ、良綱氏に絆され、婚約関係を結んでしまった私は手遅れ過ぎるだろうが。
何にせよ、自分の見た目の良さに絶対的な自信があり、容姿を武器として揮い、散々、良からぬ事をしでかしてきて、他者を見た目だけで判断し、格付けするタイプである雪乃からすると、「計画」を企てていなくとも、今の状態の私と結婚するのは、絶対に拒否したいのだろう。
私は、今の自分を恥ずかしい、と思ってもいなかったので、雪乃が告げた答えに対して、納得はしつつも、憮然としてしまった。
私の目付きが急に険しくなったからか、雪乃と勇士は反射的に身を竦ませた。
二人を脅かしたくらいで、自分の後悔していない行動の結果を蔑まれた事に対する溜飲が下がった訳ではないにしろ、こんなくだらない事をやらかした雪乃と布袋に神経を逆撫でされ、時間を無駄にされるのも気に食わなかった。
だから、私は、婚約破棄の旨を了承する、と雪乃たちに言い切った。
まさか、私がすんなりと事を受け入れるとは予想もしていなかったのか、雪乃と布袋は目を丸くしていたが、すぐに満面の笑みを浮かべ、大声で笑いながら、バカップルよろしく、腕を組んで、このカフェを出て行った。
堪えていた溜息を吐き出し、ふと、テーブルの上に目をやれば、二人が飲んでいたコーヒーの伝票が残されていた。
間髪入れずに、溜息を吐いてしまった私を、誰が責めるだろうか。
あの二人のコーヒー代を支払うのは業腹ではあるにしろ、手切れ金だと思えばいいか、と割り切った私。
二度と、あの二人には会いたくない、そう、心の底から思う一方で、この件を良綱氏たちに、どう説明したらいいのか、と悩みながら、私は代金を払い、レジに入っていたマスターに「紅茶が美味しかった」と礼を言ってから、店を出た。
来た時よりも重い気分で帰路に着こうとした時だった、雪乃と布袋が乗った高級外車がコインパーキングから出て来るのに気付いたのは。
布袋が運転している真っ白なオープンカーは、恐らく、と言うより、確実に、雪乃が暮林家の車庫から無断拝借してきたモノだろう。
当然ではあるが、車は私が向かわねばならぬ暮林家とは逆方向に走っていこうとする。
やはり、雪乃は暮林家に帰る気は、全く無いようだった。
もう、赤の他人である私が言える立場でもないが、暮林家に帰って来られても、実に困ってしまう。
この時は、どこに向かう気なのか、解らなかったし、興味も湧かなかったが、後で空港に向かうつもりだったんだろう、と私は推測した。
恐らく、海外に向かい、そのまま、しばらくの間、日本には帰ってこないつもりだったんだろう、雪乃と布袋は。
もっとも、この二人が行く事になったのは、海外ではなかったのだが。
これ以上、雪乃たちに心をザワつかされたくないってのに、また一つ、暮林家に伝える厄ネタが増えた、と陰鬱な気分になってしまいながら、視線を逸らした瞬間だった、私の鼓膜を、異様な音が打ったのは。
危険だ、と肉体が直感する音に驚いた私は反射的に、そちらへ顔を向けてしまった。
その刹那、私の目に飛び込んできたのは、暴走車をギリギリで避けた大型トラックだった。
それだけでもビックリさせられるのに、どうにか立て直そうとしている大型トラックへ、布袋が運転している高級外車が突っ込んでいったのだ。
これもまた、後で判明したのだが、雪乃と布袋は、この時、キスをしようとしていたらしく、布袋は前方を碌に見ていなかったようだ。
前を見ていないまま、ハンドルを握り、アクセルもしっかりと踏んでいたのだから、真っ白なオープンカーが大型トラックの荷台へ頭から衝突するのは、当然の話だった。
距離はあったのだが、不思議と、高級外車が悲惨な潰れ方をしていく光景は、しっかりと、かつ、ゆっくりと、この時の私の双眸には映っていた。
目の前で、布袋が雪乃を乗せた車で事故った、それを、脳味噌が理解したのと同時に、大爆発が起き、火柱が天を衝き、熱波が私の顔にまで届いた。
婚約者にこっぴどくフラれ方をする男はいる。
それが、結婚式前日であった男もいる。
友人と思っていた奴に婚約者を寝取られてしまう男もいる。
容姿の変化がキッカケになって、婚約を破棄される男もいる。
だけれども、その婚約者と寝取り男が目の前で、交通事故を起こし、巨大な炎に喰われて、おっ死ぬのを見たのは、その中でも私くらいじゃないだろうか。
二度目の大爆発で生じた爆風を、先程、雪乃に指差され、侮辱された顔に浴びながら、私は事故現場に向かって、全力で疾走していた。




