第48話 ごちそうさま
やわらかな風がレースのカーテンを揺らす昼下がり。
頬をなでる感覚にくすぐったそうに目を細めると、エルザはベッドに腰かけたまま膝の上に広げた本に、ゆっくりと視線を落とす。
羅列された文字を追いかける視線は、本来の輝きを取り戻していた。
「エルザー、起きてるー?」
遠慮なくひらかれるドアとともに鼓膜を揺らした張りのある声。
相変わらず、ギルベルトにはノックをするという考えはないらしい。
ひょっこりと顔をのぞかせた彼は、顔を上げたエルザの姿を確認するとにっこりと笑みをこぼした。
「ギル? どうしたの?」
「ダグにおやつもらってきた。一緒にどう?」
そう言って当たり前のように部屋に入ってきた彼は、小ぶりな洒落たワゴンを引いていた。
甘く香ばしいにおいが、風に乗って鼻腔をくすぐる。
焼きたてのマフィンと数種類のジャムが乗ったワゴンをテーブルのそばに移動させて、ギルベルトはいそいそとティーカップに紅茶をそそいでいく。
「だめって言っても、ここで食べるんでしょ」
「もちろん♪ っと、その前にー」
いくぶんか軽くなったティーポットをワゴンに置き、ギルベルトはスキップでもしそうな足取りでエルザの座るベッドに近づく。
そうしてベッドのふちに腰を下ろすと、いともたやすく自身の舌に牙を立てた。
ぷっくりとふくらんだ小さな血の玉が、なぞるように舌先を這わせた唇を赤く染める。
リップラインにそってにじむ鮮血に、エルザはなんとも言えず苦笑いを浮かべた。
「いただきます♡」
そう言って伸ばされたギルベルトの手が、エルザの後頭部に優しく添えられる。
引き寄せられるままに重なる唇の熱と、口内に広がる鉄の味。絡み合う舌に血と唾液が混ざりあい、小さな水音を奏でる。
「んぅ……」
いつしか血の味もしなくなり、エルザの唇はただ求められるがままにギルベルトの舌に翻弄されていた。
深いところまで迫るギルベルトに抱き寄せられ、口内にあふれる互いの唾液に、エルザの喉が無意識に何度めかの上下を繰り返した。
「ふふっ、ごちそうさまでした♡」
リップ音を響かせて離れた唇をぺろりと舐めて、ギルベルトは満面の笑みを浮かべている。
舌先の傷はすでにふさがっていて、痕ひとつ残ってはいない。
「……なんで、口移しなのよ……」
「えー、だってここからじゃ嫌がるでしょ? エルザとチューできるし、俺的には一石二鳥ー♪」
そう言いながら白いシャツの襟を広げて見せたギルベルトの首すじには、ふたつ並んだ小さな傷があった。
まだ真新しいそれは、クルースニクから連れ帰ったその日の晩に、ギルベルトが強引にエルザに噛ませたものだった。
「いくらおなかすいてたからって、もうグールの血なんか飲んじゃだめだよ? ヴァンパイアならまだしも、ヒトの血はグールに勝てないんだから」
頬をなでるギルベルトの指先が、お仕置きとばかりに小さくエルザの口の端をつまむ。
「俺ほんっとーに焦ったんだから。あのまま手遅れになってたら、エルザ、グールになってたんだからね」
救出した彼女の体は、ギルベルトが思っていた以上にひどく衰弱していた。
失踪中、空腹のあまり口にしたグールの血が、エルザの体をむしばんでいたのである。
しかし彼女の中に流れるヴァンパイアの力がそれに抵抗していたため、かろうじて最悪の事態は免れたと言っていい。
「ヴァンパイアの血に自浄作用があるなんて知らなかったわ」
「教えてなかった俺も悪いけどさ、まさかエルザがグールに噛みつくなんて思ってなかったからねー。まぁでもその自浄作用のおかげで、俺もダグもグールに噛みついても平気ってわけ」
つねられた頬をさすりながら、エルザは肩をすくめるギルベルトを見遣った。
エルザが自我を取り戻せたのは、地下牢で彼が咄嗟に自身の血をエルザに与えたおかげである。
ギルベルトの思惑どおり、彼女の体内は少しずつ浄化されてきていた。
だが一方で、彼の首すじに噛みついて血をすすることをエルザが拒否したのである。背に腹は代えられぬこととはいえ、彼女にとってはどうしてもその行為自体が嫌だった。
しかもダンピールであるエルザがつけた傷ともなれば、治癒力の高いギルベルトといえども傷の治りは遅い。
そこで打開案として彼が提案したのが、今の方法である。
ギルベルトいわく、口移しであれば血と一緒に唾液も口にすることになるため、エルザのヴァンパイアの力も強まる。そうすれば、浄化のスピードも早まるかもしれない、らしい。
今にして思えば、うまいこと丸めこまれたような気がしないでもないが、そこはもうあえてなにも言うまい。
「ほらエルザ、そろそろティータイムにしよ!」
「お姉さまぁぁああぁぁ!!」
「ちょ!? アリシアっ!?」
ギルベルトに手を引かれて立ち上がった瞬間、勢いよく部屋のドアがひらかれる。
駆け込んできたアリシアに飛びつかれ、エルザはおもわず背をのけぞらせた。
まだ体力の戻りきっていない体が、重心を支えきれずに仰向けに傾いていく。
「危ない」
「っ!? ……ダグ!」
背中から倒れることを覚悟したのもつかの間、エルザの体はアリシアごと背後のぬくもりに支えられていた。
頭上から降ってきた声に顔を上げれば、あきれ顔のダグラスが小さくため息をついていた。




