第35話 子守唄
「接近禁止令、出てるんじゃなかったの?」
「もう無理。俺にしてはがんばったほうでしょ」
聞き慣れた声色が、軽い調子で鼓膜を揺らす。
その響きに、エルザの心は熱を帯びて跳ねた。
「てかアリシアもダグもひどいと思わない? エルザが好きなら会うなさわるなキスするなって。好きな子が近くにいるのに気配消してろって言うんだよ? ありえなくない?」
ギルベルトは背中から抱きしめたエルザの肩口に顔をうずめ、すんっ、と鼻を鳴らしている。
「ふふっ、アリシアに見つかったら怒られない?」
「……見つからなければいいんだよ」
「ダグの鼻は?」
「あいつは気づいても言わないから平気。……たぶん」
ああ言えばこう言うギルベルトに、エルザはおもわず笑みをこぼしていた。
たった三日会わなかっただけなのに、ずいぶんとなつかしい感情が心を満たしていく。
「それよりさ、エルザ」
顔を上げたギルベルトが、こつん、とエルザの後頭部にひたいをつける。
小さく左右に頭を振れば、わずかな笑い声が弾んだ。
「ねぇ、さっきの。もっかい歌ってよ」
「嫌」
「えー、お願い!」
「嫌」
「おーねーがーい!」
「……もう、今日だけだからね」
まったく、油断も隙もない男である。いったいどこから聞いていたのだろうか。
いつもなら断固として断るところだが、今夜は気分がいい。
たまには素直に彼のわがままに付き合ってやるのも、悪くないかもしれない。
「~♪♪」
澄んだ音色が、風に乗って流れていく。
鼓膜を揺らすその音に、ギルベルトは静かに耳を傾けた。
やわらかな歌声が心地いい。
「……ねぇエルザ」
ささやくようなギルベルトの声が、旋律を止める。
「俺、おなかすいちゃった」
「ちゃんと夕食食べたんでしょ? とうとうボケた?」
「違いますぅー」
腕の力を強めて猫のように肩口にすり寄ってくるギルベルトにため息をつけば、少しふてくされ気味に返された。
「そっちじゃなくてさ……。ね……?」
彼が言いたいのはおおかた、「血が足りない」とかそういうことだろう。
――そういえば、ここに来てからギルが血を飲んでいるところ、見たことないわね。
ヴァンパイアである彼からすれば、それは非常に酷なことだろう。
「俺、もうわりと限界……」
「血がほしいなら町にでも行きなさいよ」
「うぅ~、わかってるよ~」
いままではそうしていただろうに、なにをためらっているのだろう。
彼らヴァンパイアにとってそれは必要なことであるのは理解しているし、いまさらそれを咎める気はさらさらない。
しかしなんとなくギルベルトが言わんとしていることを察したエルザは、彼の腕の中でくるりと体を反転させた。
「……今日だけだから」
エルザのつぶやきに、意外な反応を見せたのはギルベルトのほうだった。
きょとんとしたまま何度もまばたきをする彼は、聞き間違いかと疑っているのだろう。
「え、いいの?」
「なによ。いらないならあげない」
「いるいるいる! ふふっ、ありがとう、エルザ」
気恥ずかしくてうつむいたままそう言えば、ギルベルトははにかむように小さく笑っていた。
そうして肩口にかかるエルザの長い金色の髪をなでるようにうしろへ流し、その首すじにゆっくりと顔をうずめる。
風に揺れたギルベルトの銀髪が、頬に当たって少しくすぐったい。
「っ……!」
首すじに痛みが走る。
痛みとともに肌を吸われる感覚に、エルザは無意識に歯を食いしばった。
しかしそれもつかの間で、いつの間にか脳が麻痺してしまったかのように思考がぼんやりとしていた。
首すじの痛みとは裏腹に、肌に吸いつくギルベルトの唇のやわらかさと熱がダイレクトに脳を刺激する。
皮膚を這う舌の緩慢とした動きとねっとりとした感触に、背すじがぞわぞわと逆立った。
体の奥から沸き起こるなんとも言えぬ感覚。
こらえきれず漏れた吐息は甘く、夜の冷たい空気に吸いこまれていく。
――そういえば、ヴァンパイアの吸血には快楽作用があるんだっけ……。
いつだったか文献で見かけた一文をぼんやりとした頭の片隅で思い出したのもつかの間、次第に熱を帯びる体に腰の力が抜けそうだった。
なんとかして自分の体を支えようとするも、足が震えて思うようにいかない。
エルザはおもわず、ギルベルトの首に腕をまわしていた。
「っん……、ギ、ル……」
「っ、ごめん、エルザ。……ちょっと、止まんないかも」
「え? ちょ、ギルっ……!」
熱い吐息とともに小さく吐き出されたギルベルトの言葉の意味を理解する間もなく、貪るように再度首すじを吸い上げられる。
掻き抱くように腰を強く引き寄せられ、荒々しく首すじを這いずりまわる舌の動きに、体温が一気に上昇する。
無意識のうちに呼吸は浅くなり、腹の奥底がなにかを求めるように切なげにうずいた。
抑えきれぬ吐息が夜空の下で甘く響き、それがよりいっそう羞恥心をあおっていく。
腰を引き寄せるギルベルトの腕の強さとぬくもりに、胸がきゅんと締めつけられる。
「やっ、ぎる……! も、だめっ……!」
どこからか押し寄せる大きな波に、エルザは限界を訴えた。
このままではどうにかなってしまいそうだ。
全身を襲う自分の体ではないような感覚に、エルザは無意識に背をのけぞらせた。
瞬間、エルザの体が小さく跳ねる。弾かれたように一気に全身の力が抜け、呼吸が乱れる。痙攣する下腹部に自然と腰が揺れ、膝が小さく震えた。
「ふふっ、エルザ、もしかしてイッちゃった?」
「……うるさい……」
「ははっ、ごめんごめん」
くすくすと笑う声色にくやしくなって、エルザはわざと悪態をついてやった。
しかし言葉とは裏腹に、体はすでにギルベルトを求めてしまっている。
彼の胸に顔をうずめたまま、首にまわした手をほどかないのが彼女のせめてもの意思表示だ。
「ね、エルザがほしい……。だめ?」
耳元でそっとささやかれた言葉に、腹の奥がきゅんと高鳴った。
熱を帯びたかすれた声色と、ゆっくりと臀部をなぞる手に体が震える。
つぶやきとともに音を立てて小さく耳に落とされた唇に、全身に疼きが駆けめぐる。
みずから体を押しつけるようにして、エルザはギルベルトに体重を預けた。
「…………ここじゃ嫌」
「じゃあベッドに行こっか、お姫さま♡」
そう言ってギルベルトは軽々とエルザを横抱きにすると、彼女の唇に自身のそれを重ね合わせる。
そうしてゆっくりとした歩調で、バルコニーをあとにした。




