第30話 逃がさない
◇◇◇◇◇
「それではお母さま、ごきげんよう」
薄暗い部屋の中、アリシアはドレスの裾をつまんでうやうやしくお辞儀をする。
彼女の眼前で、光沢のある漆黒のマーメイドドレスに身を包んだ女がゆったりとソファに身を横たえていた。
「あらアリシア、もう少しゆっくりしてお行きなさいな」
ワイングラスを傾けながら、女がアリシアに微笑みかける。
しわのない艶やかな白い肌に、真っ赤なルージュが怖いくらいによく映えていた。
気だるそうにまとめ上げられた長い銀髪。うなじから背中にかけてのラインがなんともいえない色気を醸し出し、惜しげもなくさらけ出された胸の谷間が男を誘う甘い香りを漂わせている。
――相も変わらず、二人も子どもがいるようには見えませんわね。
アリシアの母親―ダニエラは、深紅の液体がそそがれたグラスを優雅に揺らし、うっとりとした表情でその香りを堪能していた。
そうして、静かにそれに口をつける。
グラスの中身は赤ワインではない。
錆びた鉄のようなにおいを放つそれは、まぎれもなくヒトの生き血である。
きっとまた、そのハリのある豊満な肉体でどこかの若者を犠牲にしてきたのだろう。
「あいにくですけれど、今日はこれからダグと出かける予定ですの。そろそろお暇いたしますわ」
アリシアがそう言うや否や、ダニエラの瞳が妖しく揺らめく。
あきらかに目の色を変えた母の表情に、アリシアは内心嫌悪感をつのらせた。
「ふふっ、たまにはあのオオカミの子、連れてきてくれてもよくってよ?」
「お断りしますわ」
「あら、あんなおいしそうな子、あなただけで一人占めなんて。……ずるい子ね」
「彼はそういうのじゃありませんわ」
引き留めようとする母の言葉を拒否して、アリシアは笑みを張りつけたままきびすを返す。
部屋中に充満する血と香水のにおいに、吐き気が込み上げそうだった。
「ねぇ、アリシア?」
ドアノブに手を伸ばしたとき、ふいに母が彼女を呼び止める。
まだなにかあるのかとアリシアが振り返れば、ダニエラはグラスに残った最後のひと口に喉を上下させた。
「あなたから、すごくおいしそうなにおいがするの。甘いあまぁい、ごちそうのにおい」
スローモーションでも見ているかのように、サイドテーブルにからっぽのグラスがゆっくりと置かれる。
コトン、とわずかに響いた音に、アリシアの鼓動が少しばかり跳ねる。
彼女はいったいなにを言おうとしているのだろう。
脳裏をよぎった自分の想像がはずれていることを願いながら、アリシアは黙って母の言葉を待つ。
「ねぇ、屋敷に『なにか』いるんじゃなくって?」
闇の中、血のように真っ赤な唇が、妖しく弧をえがいていた。
◇◇◇◇◇
屋敷まで続く獣道を、脇目もふらずに走り抜ける。
鬱蒼と生い茂る草木をものともせず、ギルベルトはエルザの手を引く。
「ちょっ、ギル! 待って!」
前を行くギルベルトに何度声をかけても、一向に彼が止まる気配はない。
木の根に足を取られ転びそうになりながら、エルザはなんとか彼についていくので精一杯だった。
「クルースニクがあたしを捜してたの! 戻らないと!」
あの隊員はエルザを捜していたと、そして副隊長も近くにいると言っていた。もし彼の言う『副隊長』がアルヴァーのことならば、東支部をあげてエルザの捜索に乗り出している可能性がある。
これはなんとかして一度支部に戻り、自身の無事だけでも伝えなくてはならない。
「ギルっ!!」
エルザの声に一切耳を貸そうとしないギルベルトにしびれを切らし、ひときわ大声で名を呼んだときだった。
ようやく足を止めてくれたギルベルトは、呼吸を整える間もなくエルザの背を木の幹に押しつける。
つないだ手はそのままに、彼はエルザに覆い被さるようにして幹に両肘をついた。
「っ!」
硬い幹に打ちつけた背中が痛い。
しかしそれ以上に、まっすぐに自分を射抜くアクアマリンに、エルザは息を飲んだ。
「エルザは、戻りたいの?」
細められたまなざしが、冷たく突き刺さる。
頭の上に上げさせられた手を、握りしめる力が強くなる。
いままで自分には向けられたことのない、なんの感情もこもらない声色に、おのずと恐怖心がつのっていく。
「ねぇ、エルザは、あいつらのところに戻りたいの?」
「っそ、れは……」
正直なところ、戻りたいかと聞かれればそうなのだろう。
しかしそれは自分の無事を仲間たちに伝えるためであって、ギルベルトたちと敵対する立場に戻るかどうかはまた別の話である。
だが支部に戻れば必然的に、クルースニクの一員としてヴァンパイアであるギルベルトたちと戦わなくてはならない。
せめてアルヴァーにだけでも無事を伝えたいが、彼はきっとエルザを見つけた瞬間に拘束してでも支部に連れて帰るだろう。
おそらくはなにかと理由をつけて、しばらくは離してもらえない気がする。貴重な情報を握るエルザを、団体が素直にギルベルトたちのもとへ帰してくれるとも思えない。
どう答えるべきかわからず、ギルベルトの視線から逃れるようにエルザはうつむいた。
「俺は、エルザを手放す気なんてない。クルースニクなんかに、渡さない」
静かにつむがれた言葉とともに、ギルベルトの顔が近づく。
互いの息づかいが感じられるほどの距離に、心なしか鼓動が早くなる。
上からのぞきこむアクアマリンに、視線を捕らえられる。
「言ったよね? 『逃さない』って」




