口裂け女と目を閉じている男
点滅する街灯の下に、マスクをした美人。
「私、キレイ?」
(酔っ払いでしょうか・・・?)
「お綺麗だと思いますよ」
言って間もなく、その肩が震え出します。酔いが回っての事なら、笑っているんだろうか。私は考えましたが、まあ分からなかった。何故って、私も酒を飲んだ帰りなんです。素面の自負はある、しかし酔ったニ十代後半が『自分は酔っている』と思っているケースは稀でしょう。なんにせよ、この酒の匂いを誰が放っているのかという簡単な問いも、今の私には判別できない事柄だ。
「・・・これデモ・・・?」
だからマスクを取って妙な質問をした女性に対して、私は思い切った返答を以て笑ってみたんです。
「はは、少しだけ汚くなった。」
女性の口は耳元まで大きく裂けていました。いわゆる『口裂け女』というものでした。大きなマスクで顔を覆った自分の容貌を訪ね、次に恐ろしい口を露わにして同じことを尋ねる。『綺麗じゃない』と答えようものなら、即刻その返答者は八つ裂きにされてしまうという都市伝説、ただの都市伝説です。
「ッ。・・・許さない許さナイ許サナイ、ユルサナイ!!!」
しかし、実在したようだ。女性は噂通り目をひん剥いて包丁を取り出し、物凄い形相で私に襲い掛かってきたんです。
私が血痕のついた包丁の刃を、『いつでも閉じている』とよく言われるこの眼で見て取った、その瞬間。
「───ちなみに、『殺気の隠し方』の話ですけどね。」
おりしも、その女性を独学の柔術でねじ伏せてしまいました。
「ッ・・・!?!??!」
口裂け女は驚いています、完璧な間合い、完璧な角度で襲い掛かったのに、どうして。そう思っているんでしょう。しかし傲慢な私からすれば、ちゃちな刃遊びと言わざるを得ない。地面に落ちた包丁の腹は捻った手首の下、街灯の光を鈍く反射しています。
「女性的な面についても、今お答えしましょうか。・・・いえしかしながら、そちらも綺麗とは言い難いですね。今の貴女からは、およそ品性と呼べるものが感じ取れない。」
「ッ!!」
「暴れても無駄ですよ、というよりその辺りの事を言ってるんです。第一に、初対面のサラリーマンに襲い掛からないでください。第二に、包丁の状態があまりにも酷い。なんですかそれは、血が付いて刃こぼれした包丁。汚いから野菜も切って欲しくないし、それで人を斬るのなら技の方をもう少し磨いて頂きたい。人様の『殺し』に文句をつける気はないですけれど、やはり酷い。ゴミのようです。最低ですよあなたの『殺し』は。もう一度言いますが、とても汚いです。」
おっと、盛大に文句をつけてしまった。口裂け女さんの眉はプルプル震えています。裂けた口を歪ませて、何とも言えない醜さだ。
「っ・・・」
「そして何よりも、第三。『綺麗じゃない』と言われて怒るのなら、綺麗かどうかを尋ねないでください。それも二回、見目を変えてまでの質問です。『醜い』と言われるのを待っているとすら思える。・・・皆目、意味が分かりません。もしかして、自分の全てを受け入れてくれる人を探しているんですか?いえそれにしても、こんな目が年中閉じているような、冴えない黒縁メガネには声をかけない方が良かった。」
言って手を放してやると、女性は数歩遠くに後退してから振り向きます。
「・・・・・・」
信じられないという旨の視線なのでしょうか。暗くてどうにも見えませんね、いつもなら暗闇でも数キロ先まで鮮明に見えるはずなのですが。
「ちなみに、容貌だけなら物凄くタイプです。日々あなたのような美人を探していた。なんて美人なんだと、口が裂けているのを見た今でもそう思いますよ。ですが、それはあくまで容貌の話だ。」
私はしなやかな紅いコートに向けて、眼鏡のブリッジを中指で持ち上げながら言い放ちました。
「───少なくとも私の価値観では、自分の醜さと向き合えない者は綺麗ではない。今のあなたは裂けている口などではなく、表情と、姿勢と、態度が悪いんですよ。」
「ッ───。」
せっかくの切れ長美人がもったいなくて、社畜の私が使ったことのないような語感の強さになってしまいました。口裂け女さんは背中を向けて、コートのポケットから手鏡を取り出します。そして、その肩は再び震え出す。女性は振り返りました。
「・・・口が、治って、る・・・!?」
元口裂け女さんは涙目でした。大きく耳元まで裂けていた口は、可愛らしく、お行儀よく、小さくなっておりました。
「お綺麗になりましたか?村田陽子さん。」
私は近寄って行って、仕方なく彼女を抱きしめました。何故って、別に給与所得者の私が抱きしめる筋合いはないのですが。今の彼女には、彼女を抱きしめる誰かが必要だと思いました。
「う・・・うぅ、ぅ・・・っ!!」
村田さんは腕の中で、女性らしく、子供っぽくはあれど、品性に富んだ泣き声を上げました。
「大丈夫。これから、これからですよ。」
しばらくして、彼女は泣き止んだかと思えば、不思議そうにこちらを見つめました。どうしてかということを話すなら、赤かった彼女のコートは純白に変わっていて、代わりに私のコートが赤く、紅く、そして黒くなっていたからです。私は落ちていた包丁を拾って、赤黒くなったコートの中に仕舞い込みました。
「これで、あなたが今まで殺した市民は全員、この『私』が殺したことになりました。あなたは晴れて無職の独身女性ですが、結婚を視野に入れなかったとして、世を渡っていく上でなんら差支えの起こらない容姿に戻っている。慎んで、懸命に歩むことをお勧めします。」
私は彼女に背中を向けたまま、話す。
「では、私はこれで失礼します。」
去ろうとする私ですが、しかし、引き止められました。ちょうど、点滅する街灯の横を通り過ぎた時です。
「待って!!」
「・・・まだ、何か?」
振り向かないまま、私は尋ねました。彼女は涙を流しながら、私に向かって言ったのです。
「私はあなたを、お慕い申し上げております・・・っ!!」
驚いた。サラリーマンをやっていて、ここまで容姿の整った女性に好かれるとは。私は嬉しくなり、大きく息をつきながら、眼鏡を外しました。
そして振り返って、点滅する街灯の元、確かにこう言ったんです。
「───こんな顔でも、ですか?」
私の口は、耳元まで裂けていました。それだけではありません。開いた右目は光彩から水晶体に至るまですべて赤黒く染まり、左目からは緑色の内臓が脈を打ちながら飛び出しておりました。髪の毛は一本一本が蚯蚓のようにうねって、同時にこの世のものとは思えない悪臭に彼女を襲わせました。
「いっ・・・・・・いやぁぁぁぁぁあっ!!」
彼女は地面にへたり込み、左手で鼻を覆ったかと思えば、右手で腰を持ち上げて、おぼつかない足取りで走り去っていきます。私は溜息を吐きますが、このようになることは、最初から分かっていたことではありました。自分でも凄い匂いで、思わず奇声を発して暴れ回りたくなるほどです。そうなれば、本物の化け物ですね。いえ、もう既に、私は本物の化け物と遜色ないのでしょうが。
脈打つ眼を閉じて、猛る髪を殺虫剤で落ち着かせ、裂けた口で嗤いながら、眼鏡をかけ直します。
(それでいい、行きなさい。あなたの道は、『これから』なんですから。)
「・・・っはは、まぁ私の口は、『これまで』なんですけどね。」
私は薄汚れた手帳を取り出して、茶色に焼いた古紙を一ページ千切って取ります。
「───さて、次はろくろ首辺りにしておきましょうか。」
私は、かく生きるのです。
いつか私の人生を垣間見た『誰か』が、私の存在を心に刻んでくれるように。私の有様を眺め、『綺麗』だと思ってくれるように。
左胸に手を当て、心臓の音に私の面影を流し込んで、『友よ』とただ一言、そう言ってもらえるように。