卒業 5
グリフィス侯爵邸では、アントニアの出産がなかなか進まない状況に陥っていた。医師もこのままでは母体すら危ういのではないか、と危惧し始めていた。
(危険な状況になればアントニア様を優先させる。御子様は…)
アントニア自身は二人目の出産ということもあり、初産よりも楽になると医師にも、使用人達にも教えてもらっていた。実際にアントニアの子供はまだ本来の出産時期とは違い体も小さいはず。だから、産むのであれば二人目だから、きっと大変ではないはずだ、とアントニアは思いながら、今の状況と向き合っていた。
手を握っていてくれるトニーに力を貰い、お腹の子に一緒にがんばろうね、と気持ちを傾け、きっと子供を無事に産んでみせる、そして自身も子供と一緒にこれから先の時間も楽しく過ごしていくことを信じて、今の時間を耐えていた。
実際にお腹の子供は順調に育っていたことと、あと少しでいつ出産しても大丈夫な時期に入ろうという直前での早産となっていたため、アントニアの予想していた子供が長男よりも小さいという予想は外れていた。それもあり、出産が難しくもなっていたかもしれない。
細身のアントニアが、切迫早産のためにずっと安静にしていたこともあって、体力も落ちてしまっていた。それによって長男の時とは違い、出産の為の体力が殺がれてしまっていた。けれど、アントニアにとっては気持ちだけは、子供を産み育てることの気力だけは強く働いている。
《絶対にこの子を産んでみせる。そして自分の手で育てていく》
この気持ちが強いからこそ、アントニアは万が一の自分の死を考えずに出産に臨んでいた。
十八歳よりも後を生きたことのないアントニアにとって、トニーとの結婚は妻としての幸せを教えてもらった。また長男の出産は産み育てるという母としての幸せを教えてもらった。
二人目のまだ産まれていない子供との未来は、もっと先の時間をアントニアが生きていけるという希望に繋がっている。今まさに命の危険に晒されながらも、意識が遠のきそうになりながらも、生きるという強い気持ちだけは消えない。
§
アントニアの周囲にいる医師や看護師達、また使用人達の様子をトニーは間近に感じながら、嫌な予感もしてはいるけれど、アントニアが諦めていないことをアントニアの瞳から読み取っていた。だから、トニーはアントニアが必ず生きると信じて、ただその場に留まり続けていた。
けれど、手を握り返すアントニアの力が弱ってきていることにも気付いていた。
「トニー様、アントニア様が危険な状況になってきております。万が一のことを考えてお子様のことは諦めていただくようにお心積もりをお願いいたします」
「…え?」
トニーは突然突き付けられた事態に、気持ちが流石に追い付かなかった。ずっと握っていたアントニアの手を離すしかなくなり、そのまま部屋から出されてしまう。
部屋の外では義父の侯爵が立っていた。義母は長男と一緒にいてくれるようだ。義父にアントニアの状況を淡々と伝えた。感情が抜け落ちたようなトニーに義父が彼の肩に手をやり、支えるようにしてその場を後にした。
アントニアは、トニーが退室してすぐに意識がなくなった。その瞬間、その場にいた者達がアントニアの命の危険が確実になったと感じた。医師も看護師も使用人達も慌ただしく動き出したが、アントニアはその意識がない中で短い夢を見ていた。
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「ま…ま、まぁま!」
「あら、お母さまのこと呼んでくれたの? うれしいわ」
「まぁま、まぁま」
「お母さまも、あなたのこと大好きよ」
小さな命が形を取り、アントニアの腕の中でキャッキャと赤ちゃん特有の声で笑っている。
「まぁま?」
「これからたくさん、お父さまやお兄ちゃまとも一緒に楽しいことしていきましょうね」
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アントニアはその夢の中で、自身が抱く小さな赤ん坊が間違いなく二人目の子供だと分かっていた。そして、懸命に生きる為に子供も産まれようとしているんだと思い出した。
アントニアの傍で声を掛け続けていたのは、幼い頃から仕えてきた侍女のドリーだった。
「アントニア様! アントニア様! お願いします、戻ってきてくださいませ!!」
そんなドリーの必死の叫びに応えるように意識を取り持出したアントニアだったが、意識を失った時と苦しい状況は変わりない。
アントニアは言葉が途切れ途切れになりながらも、子供のことを医師に訊ねた。
「せん、せ…こどもは?」
「アントニア様、意識が…良かった! お子様は産道で上手く動けずに止まってしまっているようです。
なんとかあと少しで頭が見えるというところなので、そうすればこちらで助けることも出来ます。ですから、アントニア様もあと僅か頑張って頂けますか」
「…ええ」
その後、アントニアはなんとか尽きそうになっている体力を振り絞るように力を込めて、いきみ、子供が外の世界へと向かえるよう努力し続けた。
このまま子供が動かなければ、狭い産道内で危険な状況になってしまうため、医師達も懸命に処置を続けていた。そして、その甲斐あって、アントニアが最後に一度いきんだ後、産声が部屋に響いた。
酸素を吸い込むために産声を上げる赤ん坊は、アントニアを安堵させるに充分だった。安心しきったアントニアは、そのまま意識を手放した。
§
アントニアが次に意識を取り戻したのは、出産から二時間以上後のことだった。体力が落ちていた状態での出産だったため、すっかり力尽きて眠ってしまったようだった。
睡眠を得られたことで、アントニアの体はなんとか意識を保てるくらいには回復したようだ。その時にはアントニアの周囲に家族が全員揃っていた。
トニーにとっては二人目の子供が無事生まれたと聞き安堵はしたものの、アントニアのことが心配で仕方なかった。
すぐに医師に確かめれば、心配されていた危険はアントニアが意識を失くした直後に増しはしたものの、アントニアがすぐに意識を取り戻し無事に出産を終えたことを説明され、肩の力が抜けたようだった。
その後アントニアが再び意識を失くしたのは体力が尽きた為で、ゆっくり休めば問題ないと医師から伝えられれば、グリフィス侯爵邸にいる者達全てがやっと安堵の息を吐いたのだった。
それらを説明され、アントニアは力なく笑っていた。
「私、生きてるわ。これからも、あなたや子供達、それにお父様とお母様とも一緒に生きていけるのね」
「そうだよ、アン。もう大丈夫。よく…頑張ったね。一番大変な時に力になれなかった。ごめんね」
「ううん、大丈夫。ずっと手を握ってくれてたもの。だから、頑張れたの」
「そう、それなら…良かった」
誰よりも心配していたのはトニーだった。アントニアが卒業式の後、殺されてきたことを知っているから。そして卒業式よりも後の時間を生きたことが一度もないと知っているから。
トニーは無事に出産を終え、アントニアが意識を取り戻した瞬間に時計を見た。時間はもう夜を迎えていた。窓の外に見える空は星の瞬きと青い月が浮かぶ昏い藍。
(貴族学院の卒業パーティも終わってかなり時間が過ぎてる。なら、アントニアはこの世界の最大の強制力に勝った?)
まだ少しぼんやりとした様子のアントニアの耳元に顔を近付け、トニーは囁いていた。
「アン、もう卒業パーティは終わってる。君はもう自由になれたはずだ。だから…今まで描けなかった未来を皆で生きていこう」
アントニアはトニーに小さく頷いて、やっと安心出来たというように穏やかに微笑んでいた。
この世界にずっと死を強要され続けてきたと言っていいアントニアは、初めて卒業パーティの後の時間を歩み始めた。
まだこの時間に半信半疑なところのあるトニーだったが、何よりもアントニアが生きることを望んだから、これからの時間を家族として、彼女の夫として、誰よりも彼女を愛していこうと改めて思うのだった。
 




