卒業 4
卒業パーティ会場の片隅で、教員達と対峙するように辺境伯令嬢が小さな声で抗議をしていた。それがどういう類の抗議かは、誰も気にも留めていない。ただ僅かばかり彼女達の周囲にいた令息令嬢達が、何かに気付いてはいただろうが。
「わたくし身に覚えなどありませんの。ですから、この場を出る意味も分かりませんわ」
「…穏便に済ませようかと考えていたわけだが、それを拒絶されたのであれば、この場で全てを詳らかにしまおうかと思うが…問題はないな?」
「!?」
全てをこの場で明らかにすると教員が言う。それの意味を彼女が分からないはずはないだろう。ここまで幼稚な行動をしておいて、逃げることしか考えていないようだ。
アーヴィンはそんな彼女をただ眺めているだけだった。ステファニー自身は彼女の知る小説の中で、卒業パーティでアントニアがステファニーに刃物を向けたことで、アントニアがアーヴィンに害されるという展開しか知らない。でも今はアントニアはいない。代わりに辺境伯令嬢がアーヴィンではなく、教員に問い質されようとしているのだけは理解した。彼女の背を階段で押したのは、誰かをまだ知らない。ただ、少なくともこの場にいる教員も令嬢達も彼女がその犯人なのではないか、と疑っているのだけは理解していた。
(私、あの令嬢が私に悪意を向ける理由を知らない…。それにアントニア様にも悪意を向ける理由も…知らない。どうしてアントニア様まで悪く思うの? 私だけならまだ分かる。アーヴィン様の婚約者に収まったから、きっとそれが気に入らないんだって思うから。でもアントニア様のことをどうして?)
ステファニーの疑問は誰しも感じるものだ。けれど、辺境伯令嬢はただ小さな声で抗議をするだけで、何も核心を突くような言葉は漏らさない。ふと、アーヴィンが彼女のダブルブローチを見て、何かに気付いたようだ。
「…あれ、は。確か…幼い頃に私が誰かと一緒に…描いた絵に、似ている…気がする」
そう言葉が零れた瞬間にアーヴィンは思い出していた。幼少の頃、アントニアとは別に自分と同じくらいの年の少女と何度か一緒に過ごした記憶を。その少女はアントニアとは違い、おとなしく淑やかに過ごすことを好んだ。だから、一緒に本を読んだり、絵を描くことが多かったことを。その少女は幼いながらに絵が非常に上手く、今のアーヴィンが見てもただただ感嘆符しか出ないような、そんな繊細な絵を描いていたと思い出していた。確かにあのダブルブローチと似た絵を見たことがある。確信していた。幼いアーヴィンが少女が描く絵をとにかく褒めていた記憶がある。そして、そんな少女が嬉しそうにはにかんで微笑んでいたことも。
やがてアントニアと婚約をしたことで、その少女と一緒に過ごす機会がなくなったことも。
(あれは一体誰だったのか…)
「君のそのブローチだが、メイプル嬢のすぐ後ろに立っていたという人物が身に着けていたものと同じだそうだ。それは君の物かな? もしかして、誰かに押し付けられた…ということはないか?」
「! …そ、れは」
教員の問いに口籠る令嬢に、誰もが不審な目を向ける。そのことを理解しているはずなのに、令嬢は教員の言うように『誰かに押し付けられた』という言い訳を言うわけではなかった。
唇をきゅっと噛み、何かに堪えているような様は、一方的に責められている彼女の状況に嵌り過ぎる表情だったが、彼女がそうする理由は違うところにあるようだった。
「……ンさ……めて、…………たもの…………なのに」
小さな声で何か言葉を紡いでいることは分かるけれど、彼女がその言葉を聞こえるように伝えるつもりがないことはその場にいる者であれば気付いただろう。恨みがましい目を見せながらも、ブローチに手を当て、それを守るような仕草をしている。きっと何か彼女なりの矜持があってのことなのだろう。
そして追い込まれていくように彼女の声が徐々に低くなっていく。
「わたくしは…何も、知りませんわ」
そう言い切ると逃げるように、アントニアの友人である令嬢達しかいない方へと体を向けて、動いた。急なことに彼女達もすぐには対処出来ず、咄嗟に除けてしまっていた。
けれど、アーヴィンが動いていた。走り出そうとした彼女の腕を掴み、動きを止める。咄嗟のことに驚き、掴んだ相手を確かめるように振り返れば、彼女はアーヴィンに掴まったのだと理解した。彼女は涙を浮かべて、唇と先程よりももっと強く噛んでいた。それが、悔しくてなのか、ただ悲しくてなのか、もっと別の何かなのか。
アーヴィンは、ただ一つだけ問い掛ける。
「そのブローチは、君が幼い頃に我が家に父君と一緒に来た時に描いたことのある、マーガレットの花じゃないか?」
その言葉を聞いた瞬間に頽れるように彼女は床に座り込んでいた。そして、堪え切れずというように涙を流していた。
教員達が彼女を支えるように立たせ、連れて行く。アーヴィンの隣に立ったステファニーは首を少し傾げていた。
「もしかしたら、アーヴィン様のことをずっとお慕いしていたのかも…」
「それは、私には分からない。でも…」
その先の言葉をアーヴィンは言う事が出来なかった。自身がアントニアに傾けていた気持ちが空回っていた頃のことを思い出したからだろうか。
この後、アントニアの友人の令嬢達から事情を二人は聞いた。ステファニーの背後にいた人物が彼女が身に着けていたダブルブローチを付けていたこと。
もっと言えば、アントニアの悪い噂は彼女が広めていた節があること。その噂と同時に広まったアントニアのステファニーに対する悪意のある噂も。
だから今日という卒業式、もしくは卒業パーティでアントニアを今よりもっと貶めるために、加えて言えばステファニーに危害を加えることも含めて、今日何かしらあるのではないか、と彼女達は考え様子を見ていたこと。
ただ見守るだけしか出来ない為、ステファニーを階段で助けられなかったと彼女達は謝罪していた。
トニーがアントニアを守る為に彼女達に出来る範囲でという条件付きで、ただ“ステファニーの周囲を見ていてほしいこと、辺境伯令嬢の周囲も見ていてほしい”と伝えていた。そのことを彼女達が彼らに伝えることはなかったが。
二人は彼女達に対し、謝る必要がないと伝え、気にしなくていいのだと、むしろ早い解決につながりそうだからと感謝を伝えていた。
「アントニア様…私なんかの為に心を砕いてくださってたのは知っています。でもまさか、トニー卿まで…」
「そうだな…今日のことの礼を伝えなくてはいけないね、ステファニー」
「ええ、アーヴィン様」
二人がアントニアとトニーに改めて感謝する言葉を口にすれば、令嬢達はその場を辞していった。
「私達、先生方にお話がありますので失礼いたしますわね」
「ああ、今日は本当にありがとう」
「いいえ、それでは」
あっさりと二人を残し去って行く彼女達の後ろ姿を眺めながら、ステファニーは安堵していた。本当ならこの場がアントニアの血で染まるような結末しか知らないから。それが、今アントニアはこの場にいない。そしてその血がこの場で流れる心配もない。
嫋やかに微笑むアントニアを思い出しながら、無事に今日を乗り切ってほしいと願うのだった。
「アントニア様は、大丈夫かしら…」
「そうだね、二人目の御子がいるのだから無理はしてないと思うよ」
「そうよね、きっと今頃ゆったりとお過ごしよね」
そんな二人の会話とは裏腹に、アントニアは危険な状況に陥りつつあった。




