卒業 2
医務室へと急ぐアーヴィンの腕の中でステファニーは酷く狼狽えていた。けれど、誰より大好きな婚約者にこんな風にされて、嫌な気持ちなど欠片もない。ただ、前世で日本人だった記憶があるが故の狼狽えであって、今世のステファニーとしてはただただ嬉しい気持ちが勝ってはいる。が、やはり慣れないからか狼狽えている。
アーヴィンのおかげで足に負担を掛けることなく医務室へと無事辿り着くことが出来た。
医務室の扉をノックし、医師に扉を開けてもらった後は、処置をしてもらった。足に負担がないように過ごすのであれば、パーティの参加も可能だと告げられて。
「ダンスは当然だめだから、そこは気を付けて。せっかく卒業したのに、最後に嫌な思い出を作ることもないでしょう? というわけだから、二人は婚約者なのだし、今後もいくらでもダンスの機会はあるのだから…非常に残念だけど、諦めなさい。
ただし、人目のない場所で、少しだけステップを踏む程度なら、大丈夫でしょう。というわけだから、本当に無理はしてはいけませんよ?」
「はい。ありがとうございます」
アーヴィンとステファニーは苦笑気味に、でも卒業パーティに参加出来ることに安堵していた。
けれど、すぐにでも帰らなくてはいけなくなるだろうことも分かっていたから、二人で卒業パーティに出たという事実があるだけで、良しとしようと考えているようだ。
医務室を後にした二人だったが、ステファニーの足の具合を考えると、無理をさせたくないアーヴィンが、やはり横抱きにして会場へと移動していた。
ステファニーは内心、ゆっくりでいいから歩かせて! と叫んでいたが、声に出せるわけもなく。仕方なく今の状況を甘受しているようだ。
(は、恥ずかしいー!!)
この叫びが誰の耳に届くはずもなく、ステファニーが一人でアタフタするだけだった。
そんな中、アーヴィンがふと呟いた。
「アントニア夫人の言っていたことが、まさか本当になるなんて思わなかった…」
「あ…、本当だわ。私が足を滑らせたのならただのドジで終わるけど、背中を押された感覚は間違いないもの」
「暫くは嫌がらせめいたこともなかったし、もう大丈夫だと思っていたんだけど、まさか人目が多くある場所でなんて思いもしなかった」
「本当に。でも、一体誰が? 目的は何なのかしら?」
「そこは分からないけど、悪意を感じる。ただの事故なら、誤って背中を押してしまったと告げれば終わることだしね」
二人して少し考えながら、会場へと向かう。
「私じゃ全く分からないわ。こう…何かを推理するようなことは苦手だもの」
「普通は得意な人間なんて、あまりいないんじゃないのかな。ただ、順序立てて考えていけば、何かしら気付けるだけだよ」
「そういうものなの? よく分からないけど…アーヴィン様頑張ってね」
「はは、丸投げ? でも、きっと先生方が動いてくださってるから、私の出番はないんじゃないかと思うよ」
ステファニーの言葉から、少し二人の空気も軽くなる。クスクスと笑うステファニーにほっとしているアーヴィンがいた。
会場へと辿り着き、ステファニーをアーヴィンが自身の腕から下ろし、二人で中へと入る。会場内はすでにダンスをする卒業生達によって色鮮やかに場が輝いている。その様子にステファニーが少女らしく目を惹かれたようだ。アーヴィンはステファニーの腰に手をやることで、彼女の体を支えていた。
二人が会場へやって来たことに気付いた卒業生達が、二人のその様子に仲睦まじいと感じている。そして、アントニアの噂も同時に思い起こしているようだ。
会場のあちらこちらで、囁かれるアントニアがステファニーを害そうとした、という噂。今日、まさに卒業パーティの直前にステファニーが誰かに押されたらしいという話と併せて、噂も広がっている。
§§§
グリフィス侯爵邸ではアントニアの体調悪化に家族だけでなく、使用人達も揃ってピリピリとした空気を纏っていた。誰もがアントニアの無事と、お腹の子供の無事を願ってやまない状況だった。
アントニア自身は比較的落ち着いていて、体が安定しているためか、笑顔も見せていたし、誰もが安堵出来てはいた。けれど、いつ状況が悪化するのかは分からないため、看護師が常にアントニアの傍にいるようになっていた。
そして一気に悪化したのは、まさにステファニーが階段から落ちたその頃だ。
急にお腹を押さえ、痛みに苦しみ出したアントニアを真っ先に様子を見るために近付いたのは看護師。そして、すぐに医師を呼ぶように伝えたのも看護師。
部屋にいたアントニア付の侍女であるドリーは侯爵夫妻とトニーにアントニアのことを伝えるようもう一人の侍女に頼み、執事に医師のことを頼んだ。ドリーも看護師を手伝いながら、アントニアのことをひたすら心の中で祈り続けている。無意識に祈りに乗せる言葉は、何かを悟っているようで、ドリーもアントニアを奪われたくない側の人間だった。
(神様、お願いですから二度と私の大切な主を奪わないでください! お願いします!!)
医師がアントニアの診察を始めた頃、ステファニーとアーヴィンは手当を終え、卒業パーティの会場へ入った頃だった。
医師は酷く厳しい状況にあるとトニー達に伝えていた。けれど、今はもうお腹の子供を産むことしか出来ない状況になってしまっているため、出産に入るとも伝えていた。
それと同時に、家族であるトニー、そしてグリフィス侯爵夫妻に残酷な問い掛けもされていた。
「もし、最悪の状況があった場合ですが…どちらの命を優先されますか?」
「…さい、あくの?」
取り乱したのはトニーだった。いつだって冷静に対処してきたはずの人物が、問われた言葉の意味を理解できないかのような様子で、茫然としている。そんなトニーの肩を一度叩いてから、侯爵が確認している。
「まさかアントニアに危険があるのですか?」
医師は首を横に振って、そうではないと伝えた。
「万が一のことを考えて、です。今の様子ならきっと大丈夫。けれど、確実とは言えません。ですから、確認なのです」
「分かりました。最悪の時はアントニアを優先してください。あの子がいなくなれば、まだ幼い孫も悲しむでしょうから」
「夫人も、トニー卿もそれでよろしいでしょうか?」
夫人は躊躇いながらも頷いていた。トニーも辛うじて頷いたが、まだどこか現状を受け入れられないという様子だった。
医師は、トニー達を退室させると、看護師の他に出産経験のある使用人を二人程手伝いにと頼んでいた。アントニアの痛みは陣痛だった。もうこれ以上は無理だったのだろう。
アントニアも痛みで苦しかったが、全ての会話は聞こえる範囲でなら全て耳が拾っていた。その意味を全て理解するだけの余裕はなかったが、聞こえてくる言葉から現状危険があることは理解していた。
もし、子供が助かるのなら、私の命はいらない。子供を優先させてほしい、とアントニアは思う。けれど、家族は子供よりもアントニアを望んでいた。
自分を慈しんでくれていることには嬉しい気持ちがないわけじゃない。でも、悲しいと感じる気持ちが大きかった。だからアントニアは、痛みに苦しみながらも口元に笑みを浮かべるように努力した。
(きっと大丈夫。この子は前にまだお腹にいてねって話したら、ちゃんといい子にしていてくれたのよ。今度も大丈夫。ちゃんと元気に生まれてくれる…わ。だから、私もがんばるの)
お腹を何度も撫でる。そして小さく声に出して子供に伝える。
「お母さまもがんばる、から…赤ちゃんもがんばって、お外に出てきてね。お父さまも、おじい様も、おばあ様も、お兄ちゃまも…待ってる、からね」
陣痛が徐々に間隔を狭めていく。医師達がベッドの周囲で万全の態勢でアントニアの出産を助けていく。
どうしてもアントニアが心配で仕方のないトニーは、アントニアのベッドのすぐ脇でアントニアの手をしっかりと握りながら励ましていた。ただ待つだけの時間が耐えられず、医師にも看護師や手伝いの使用人達にも反対されながら、アントニアの出産に立ち会う形で、けれど彼女を守りたい気持ちだけで、傍にいることを選択していた。
(…忘れていたけど、今日は確か卒業式じゃなかったか? アンも子供もどうすれば守れる?)
焦りばかりが募るトニーに対して、トニー自身がどうすることも出来ない状況に置かれ、ただただアントニアを力づけようと傍にいること選んだ。
痛みから声を上げてしまうアントニア。その痛みがどれ程のものなのか、トニーが理解する日は絶対に来ない。それでも、アントニアを力づけようと傍にいること選んだ。
そしてアントニアも産みの苦しみの中、産まれてくる子供の為に、未来の自分達の為に、トニーの握っていてくれる手に力をもらっていた。




