王都へ
今回も短めです。
グリフィス侯爵領から王都まで、馬車での移動中は非常に賑やかなものだった。
全ては長男のおかげ、とも言えた。
物心つく前から馬車に乗り、王都と領地を移動していたけれど、それは長男にとっては記憶に残っていない為、当然のようにノーカンだ。つまり、今回の馬車での旅は、長男にとっては初めての旅でもあり、馬車の窓から眺める、今まで見たことのない風景は非常に興味を惹くものとなったようだ。
見知らぬ建物や、景色、それに動物や人々、それらが気になって仕方ないお年頃でもある。
知らないものを見つけるたびに、トニーにもアントニアにも
「あれ、なに?」
を繰り返し、飽きることなく問い続けた。そのおかげで、親であるトニーもアントニアも、頭にある記憶の奥の物を引っ張り出す勢いで、様々な知識を長男に話すことになったのは、ある意味いい想い出とも言えるだろう。
そんな楽しくも賑やかな馬車の旅は、トニーが舌打ちをしたくなるものによって予定が狂わされることになった。
長男の無邪気な「あれ、なに?」と声が聞こえ、彼の小さな人差し指が示す先をトニーもアントニアも馬車の窓から見た。
一面の草原が広がり、そのさらに奥には森が見えている。そして手前の草原には、普段見ることのないだろう鹿の群れがいた。鹿のような大型の草食動物は山奥にいることが多く、間近で見ることなど滅多にない。長男は鹿が群れる様に興味を惹かれたらしく、懸命に窓の外を眺めていた。
その時だった。甲高い子供のような声にも似た『きゃ』とも『ぴゃ』とも聞こえる声が響いた。すると、鹿が一斉に移動を始めた。何かに気付いた鹿が鳴いたのだろう。
鹿が逃げるように動く先とは逆を見れば、鹿よりも背の低い何かが走ってきている。犬にも見えたが、大きさ的には犬ではないように感じたトニーは、最初に御者に馬車を停めるよう伝え、騎士達に指示を出していた。
「何かの群れが来てる! 群れの数は多くはないが、鹿よりもこちらに目標を変える可能性がある!」
そこまで伝えた後、騎士達に馬車を守ることを優先するよう言う。
鹿を追う群れを避ける方法として、馬車を進行方向へ全速力で走らせ逃げ切る方法と、ここで様子を見る方法とがある。
このまま進めば鹿の群れとぶつかり合うくらいの距離にいると目視で判断しているトニー。全速力で走り抜けて、鹿の群れを避けられたとしても鹿を追う群れが馬車を狙ってくる可能性もある。それ以上に、鹿の群れとぶつかり合って事故に遭う可能性も大きい。
かと言って様子を見るために立ち止まるのも狙ってくれと言っているようなものだ。
後はこの場に留まらず、鹿の群れとは反対方向へと行くのが一番の安全策。今は子供もいるし、何よりアントニアは妊娠をしている。それに使用人達を乗せた馬車と一緒に動いているし、一番の安全策を取るべきだとトニーは考える。
先を急ぐよりは、一旦この場から立ち去るために街道を戻るほうが間違いがない。鹿を追う群れはまだ遠い。こちらに気付いているのかいないのか、きっと気付いてはいる。が、鹿の群れの方が圧倒的に近い。それならこちらよりも鹿を追うだろう。
「今すぐ街へ引き返す! 急げ!」
トニーが騎士と共に御者にも指示を出す。鹿を追う群れはきっと狼だろうと見当を付けている。
今その言葉を出せば、アントニアも子供も怖がる。それなら具体的な言葉は避けたい。だから『何か』と言葉を誤魔化していた。が、騎士達も御者も理解していたようだ。
馬車が方向転換を始め、子供が「どうしたの?」と問う。アントニアはトニーの言葉から、危険があるのだろうと察していたからなのか、子供に殊更穏やかに微笑みながら答えていた。
「さっき鹿がたくさんいたでしょう?」
「あい」
「その鹿がね、こちらに来てるみたいなの。このまま馬車が真っ直ぐ行ったらどうなるかしら?」
「…ぶつかぅ?」
「そうね。だから、鹿とぶつからないように急いで馬車を移動させているのよ」
「わかった!」
理由が分かって、納得も出来たためか子供はにこにことしていた。トニーはアントニアに小さく頷いてから、アントニアの頬に手を伸ばし、触れていた。アントニアもそれに小さく笑みを浮かべる。
「助かった。ありがとう」
「どういたしまして」
それ以上はアントニアも子供もトニーに問うことはなかった。
けれど、先程までとは違う、流れる景色も、馬車の揺れも何もかも違う状況に子供はただただ楽しんでいたようだ。けれど、アントニアはこの状況に安全ではないのだと理解しているためか、少しだけ顔色が悪かった。
トニーはアントニアの隣に座ると肩を抱き、大丈夫だと声を掛けていた。アントニアもそれに応えるように頷いていた。
§
一旦、鹿と狼のいた草原から離れ、草原の手前にあった街まで戻ってきていた。草原から然程離れていないため、すぐに安全圏に入ることができトニーは安堵していた。
安全のため、予定にはなかったがその街でその日は宿泊することにし、翌日の早くに王都へと真っ直ぐに向かう。
馬車の中で長男はアントニアの膝枕で眠っている。いつもより早く起きたせいだろう。少しそれを羨む気持ちを感じながらも、アントニアと、子供に何もなくて良かった、と安堵していた。
その後は何事もなく無事に王都へ辿り着いた。
王都のグリフィス侯爵邸では、アントニアの両親がすっかり元気にしている様子を見ることが出来、アントニアもトニーも安堵していた。
長男は祖父母に再会出来たことが嬉しいのか、しばらくは祖父母の側を離れなかった。
トニーは今回狼の群れと幸い接近することにはならなかったものの、何かを象徴しているような気がしてならなかった。
アントニアを奪う何かが近付いてきているような、そんな嫌な予感がしていた。それがどういうものなのか、全く分からない。
人の手によるものなのか、今回のような自然のものなのか、全く分からない。でも、アントニアを守ることしか選択肢はない。
だから、トニーはその場に応じて考えて動くだけだった。




