結婚 3
結婚式を終え、翌日は昼過ぎまで寝ていたアントニアは、昼食を摂ることもないまま微睡み続けていた。
そんなアントニアの隣でトニーはアントニアの髪を撫でながら、寝顔をただ見つめていた。
「奥さんが可愛い」
そんな独り言を漏らしたトニーだったが、そのタイミングでアントニアが小さな瞬きをした。が、すぐに瞼が開くわけではなく、何度か繰り返し小さな瞬きをしてから、やっと瞼が少し動き、アントニアの愛らしい瞳がのぞいたのだった。
「…ん、おはよ…」
「おはよう、アン」
小さく欠伸をしたアントニアの髪にトニーがキスを落とす。
ハッとしたようにアントニアが大きく目を見開いた。それから、慌てて自身の寝衣を確認している。ちゃんと着ていたことで安堵していたが、よくよく見れば胸元で結ばれているリボンが変に傾いている。縦結びになっているようだ。
「…あ、ごめん。リボンがちゃんと結べてなかったね。暗がりでしたのも悪かったかな。風邪をひかないようにと思って着せたんだけど」
「!?」
「もう夫婦なんだから、おかしくないよ」
「!!」
「…あぁ。本当、僕の奥さんは可愛くて仕方ないな」
寝衣を結婚したばかりのトニーに着せられたという事実だけで、羞恥から真っ赤になってしまったアントニアは掛布を抱え込んで顔を覆ってしまっている。そんなアントニアをトニーは目を細めてただただ愛でている。
今しばらく新婚の二人は、甘い時間を過ごすのだった。
§
結婚の翌日はしっかりベッドの上で体を休めたアントニアだったが、休日が終わると同時に学園に戻っていった。親しくしている令嬢の数人にしか伝えていなかった結婚だったが、彼女達は誰にもアントニアの結婚のことを言わずにいてくれた。おかげで、学園でも普段通り穏やかに過ごすことが出来た。
週末ごとにアントニアは屋敷に帰るのだが、休み直前の帰りの馬車は必ずトニーがいて、学園まで迎えに来てくれるようになった。馬車に乗る直前からトニーはアントニアを甘やかすばかりで、それにいつまでも慣れる様子のないアントニアが学園で僅か見られることになった。
アントニアとトニーの二人の様子が、あまりに甘い空気に包まれているせいなのか、婚約者のいる令嬢達は二人の空気を羨んだり、婚約者に同じものを求めたりと、周囲に良いのか悪いのか多大な影響を与えていたのだが、本人たちは全く関知しないのだった。
§
二人の結婚から二月程過ぎた頃だった。季節はすっかり秋を終え、雪が降りしきる真冬を迎えていた。
結婚して初めての冬は二人にとって特別な日々だった。学園の冬季休暇になると侯爵夫妻は王都よりも温かい地域に含まれるグリフィス侯爵領へと二人揃って戻っていった。
二人の時間をゆっくりと過ごせるようにと言う夫妻からの心遣いのようだ。
おかげで、アントニアとトニーは二人きりの時間を過ごすことになった。使用人達は甘い空気を漂わせる二人に中てられながら、それでも元婚約者と過ごしていたアントニアのことを考えれば、今の幸せなアントニアに誰もが心から喜んでいた。
そして、そんなアントニアに寄り添うトニーのことも、侯爵家の自分達のお嬢様を幸せにしてくれた次期当主に期待しないわけにはいかないのだった。
常に一緒に寄り添う若い夫婦は、グリフィス侯爵邸では幸せの象徴だった。
そして、その幸せの象徴の許へ新しい命がやって来たのは、冬季休暇も終わり、いつも通りアントニアが週末に屋敷へと戻ってきている雪が降りしきるある朝のことだった。
その日はアントニアは朝からずっと体の調子がおかしかった。微熱があるけれど、特別何かがおかしいというわけでもなかった。
けれど、わずかな吐き気がある。普段通りに過ごそうと思えば過ごせるけれど、少し疲れやすい感覚もあって、食欲もなくなっていた。
唐突なことだったから、トニーは慌ててしまっていたが、出産経験のある使用人達が色めき立ったのは仕方のない事だろう。
「アン、今お医者様を呼んだから、とにかく横になっていよう。食欲もないようだし、悪い病気では困るしね」
「ええ」
トニーはそう言いながらも、期待をしないわけにはいかなかった。使用人達の様子から、ほぼアントニアが妊娠したのだろうことが察せられたから。
その後医師がアントニアを診察し、アントニアの妊娠が告げられたのだった。
「おめでとうございます。トニー様」
「…っ! 子が出来たんですか?」
「はい、トニー様。お二人の御子がいらっしゃいますよ。アントニア様は悪阻があるようですから、ゆったりとお過ごしいただくのが良いかと思います」
「良かった…。何か病気ではないかと心配もあったから。だが、悪阻は…」
「人によっては食事が取れなくなるほどに酷い症状になる場合もあります。今はまだアントニア様の体を優先して大丈夫な時期ですから、無理せずお過ごしいただければ」
「分かった。使用人達の中にも子がいる者が多いから、助けてもらえるし…。とにかく、良かった」
「それでは、今後は定期的に診察に参ります」
「先生、ありがとうございます。よろしくお願いします」
医師は診察後に微睡み始めたアントニアの様子から、声を押さえてトニーに妊娠を告げた。
トニーだけでなくその場にいた侍女達も声は囁くように小さくではあったが、誰もが喜んでいた。
医師の見送りを執事に任せ、トニーは寝息をたてているアントニアをそっと見守っている。
生まれた頃からアントニアを見て、世話をしてきた侍女達は母親になろうとしているアントニアに、自身の娘を見るような眼差しを向けるのだった。
まだしばらくは眠っているだろうアントニアを侍女達に任せると、トニーは急いで義理の両親へと手紙を書いた。
その手紙を二人が受け取れば、急いで領地から戻ってくるだろうことは想像出来たが、きっとアントニアにとって母親が傍にいることが心強いものになるだろうと思ってのことだった。
悪阻のためにアントニアは常に吐き気に見舞われていた。食欲も落ちたままで起きていることもつらく、ベッドの上の住人になっていた。おかげで、アントニアは痩せ細ってしまっていた。
心配をしたグリフィス侯爵とトニーがアントニアに何かを口にするように構い続けたが、それを夫人から窘められるということが繰り返された。
「二人共、落ち着いてくださいな。アンの状態は私の時と同じですから、暫くすれば落ち着きます。そうすれば、今は痩せてしまっていても体重も増えていくものなのです。大丈夫ですから!」
「…義母上、それは本当ですか?」
「確かに…君も今のアンのように、ずっと横になっていたな」
夫人の言葉に男二人が不安気な様子を見せながらも、気持ちは安堵した様子を見せていた。
「ええ、私がアントニアを迎えた時とそっくりですもの。親子は似るものだと聞いていたけれど、本当ね」
「そうなんですね…。それなら、安心です。このままだったらアンも子供も心配だったものですから」
「大丈夫ですよ。トニーはアンに寄り添っていてちょうだいな。あなたは…もう少し落ち着きましょうか」
夫人とトニーとのやり取りは、新婚早々に身籠った妻を心配している義理の息子に対するそれだった。が、最後は自身の夫に向けてのものだった。
男二人は夫人になんとか宥め賺されながら、一番つらいのはアントニアだから、と出来る限り穏やかに、落ち着くようにアントニアを気遣うのだった。
アントニアが妊娠したことで、学園に通うことが難しくなりこの時点でアントニアの学園の自主退学の時期が早まることが決まった。本当なら一年を終える春に退学する予定だったが。
悪阻が思ったよりも酷く、一日の大半をベッドで過ごしている状況のため、すぐにでも退学すべきだろうと皆が考えるようになっていた。
最終的にはアントニアの意思が尊重されたが、アントニアも同じ考えだった。
§
「まぁ! それは本当ですの? アントニア様…学園を退学されるって…」
「わたくしも先程小耳に挟んだところですわ。婚約者の方は遠縁で義理のお兄様に当たる方ですし、ずっと御一緒されてるわけですし…」
「何かありましたの?」
「アントニア様、どうやら御子が…」
「え!?」
「でも、実はすでに結婚されてらっしゃったそうですの」
「まぁ!」
「ですから、結婚式も終えてらっしゃって、その上での御子のようですわ」
「…おめでたいお話でしたのね」
「ええ。口さがない方達は、アントニア様がまるで乱れた生活を過ごされていたなんて噂されてますけど、有り得ませんわ。常に婚約者様が寄り添ってらっしゃいましたもの」
「絶対それはないですわね。トニー卿のあの御様子を御存知なら、お相手は間違いなくトニー卿しか有り得ませんもの」
そんなことを噂されながらも、アントニアは手続きのためにトニーと共に学園に訪れていた。
担任だった教師に挨拶をするため、それから友人の令嬢達にも挨拶をするためだった。
「先生、大変お世話になりました。結婚式にも参列していただいて、ありがとうございます。それで私達、子供も授かりました」
「いや、こちらこそグリフィス嬢…いや、夫人だね。君のおかげでクラスのまとまりもあって、非常に助かっていたよ。残念だが、嬉しくも目出度い報せだから、退学の件は祝いの言葉に代えさせていただこう。
おめでとう。私の妻も身籠った時には酷く辛そうな時期があったよ。夫人も自分のため、御子のため、大事に過ごしてほしい。本当におめでとう」
「ありがとうございます。子供が生まれましたら、先生にお知らせに伺いますね」
「楽しみにしているよ」
担任の教師だけでなく学科の教師達からも祝いを述べられ、アントニアもトニーも気恥ずかしさを抱えながら礼を言い、教師達と別れを告げた。その後は、教室へと赴き二人揃って親しくしてきた令嬢達に事情を話し、退学する旨を伝えた。
皆が喜んでくれたものの、寂しくなるとも言われてしまい、アントニアも寂しいと伝えていた。
「わたくし達、お友達ですもの。お子様が無事お生まれになったら、お祝いを持って駆けつけますわ!」
「ええ、そうですわね。どんなものがいいのかしら? 嫁いでいる姉に相談してみますわ」
「そうですわ、無理せずお体大事になさってくださいましね」
「皆様、ありがとうございます。無事生まれましたら、お手紙書きますね」
「わたくし達からもお手紙書きますね」
「ええ、楽しみにしています」
そんな風にやり取りをし、アントニアはトニーと共に教室を去って行った。
二人を囲むように話をしていた令嬢達を遠目にしていた他のクラスメート達の中に、アーヴィンもいたのだが微かにアントニアに向ける思慕の残り香のようなものをアーヴィンが自覚したのかどうかは分からない。
ただアントニアが子を宿している事実に、アーヴィン自身は思ったよりは動揺しなかったと、どこかで安堵してはいたが。
ただアーヴィンを訪ねて来ていてアントニア達が教室にいるのを見かけたステファニーは、アントニアがこれ以上なく幸せそうに微笑んでいる様が眩しくて仕方なかった。
そして、アントニアと話す機会が暫くの間なくなることに気付かないのだった。
お読みいただきありがとうございます。
前回投稿の結婚2の中で、作中に書く機会のない伯父さんの過去を少し活動報告で書きました。
設定のようなものなので、見ても見なくても本編には一切関係ないので、興味がある方だけどうぞ。
次回の投稿は水曜日になります。
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