婚約の解消 8
グリフィス侯爵邸を訪れたアーヴィンが茫然自失で帰っていくのを見送ることなく、アントニアとトニーはトニーの自室で二人きりになった。
ソファに二人並んで座り、互いの手を繋いだままでいた。
「…やっと、肩の荷が下りた、かな。アン、大丈夫だった?」
アントニアのほうに顔を向けることなくトニーがそう問えば、アントニアもトニーに顔を向けるでもなく答える。
「はい。言いたいことをちゃんと言えたから、スッキリしました」
「じゃ…後は、公爵様の判断待ちってところかな。多分婚約は解消されると思うけどね。アーヴィン様のあの様子なら、アンとやっていけないことは把握出来ただろうしね」
「そうだといいです。正直、見苦しくて見ていられなかったので…」
「アン、それは…言い過ぎかな。ちょっとアーヴィン様が可哀想だよ。まぁ気持ちは分かるんだけどさ」
「…そう、ですね。もう今までのようにアーヴィン様と二人で会うことはないと思うので、気が楽になってますけど」
「はぁ、早くアーヴィン様からアンを解放したくて仕方ないよ。早く僕だけのアンになってほしい…」
トニーがアントニアへの気持ちをいつも隠さずに伝えてくれる。ただそれだけのことが、アントニアにはとても大きかった。この世界の始まりの頃は、アーヴィンを想っていた時もあったのだ。その時の記憶がアントニアにも微かにではあるものの残っている。
けれど、殺され続けるうちに愛情は恐怖に取って代わった。そして、心が壊れていった。今の自身ですら正常な自分なのか自信がないなんて、トニーにすら言えないでいる。
前触れなく死にたくなることが、トニーが一緒にいてくれるようになってからは随分減って、今は刃物や刃物に代わる物があっても、自身に突き立てようとすることもなくなっている。
それでも自分自身を信じられないくらいには、壊れていた時期が長かった自覚がある。
強制力の為に、壊れたことすら表に出せないまま生きてきたアントニアにとっては、もうアーヴィンは生きていくのに邪魔でしかなかった。
そんな中、トニーだけがアントニアを考えてくれて、アントニアだけを見てくれた。アントニアだけに寄り添って、アントニアを一番に愛してくれている。
だから、アントニアはトニーを信じられる。トニーだけがアントニアにとって世界の中心になっていた。
ずっと殺される為だけにこの世界に生かされ続けた少女が、初めて自分だけを唯一だと言い、そうなのだと信じさせてくれた相手に依存したとして、誰がその感情を否定出来るだろうか。
§
二人が気持ちを確認し合ったのは、ほんの一ヶ月ほど前のことだった。
トニーは前回、アントニアとは学院での友人の婚約者という立場で彼女と出会い、知り合った。
その時には婚約者もいたし、貴族という立場でもあった。実際に貴族の令息で婚約者のことを溺愛している役割だった。
その為、アントニアを友人として婚約者と共に支えることは出来ても、唯一の精神的な支えにはなれなかった。そのことをとても悔やんでいた。
彼は常にこの世界でモブとして立ち回ってきた。
いつも違う役割を与えられてきたが、全てモブだった。だから、自由に動くことが出来る立場だった。
アントニアの家族として養子になるのも、養子そのものがこの世界に一切介入しないモブだからこそトニーが入れ替わっても成り立ったのだ。
そう、彼は本当の養子となるべき立場の人物と入れ替わっているのだ。が、説明するのが手間だから、まだアントニアに説明をしていない。もしかしたら説明する気もないかもしれない。
モブだから自由に振舞える。これはこの世界でのルールだ。世界に強制されないから。
アントニアやアーヴィン、ステファニーのようなこの世界に強制される立場の人物は、自由に振舞える時間はあったとしても世界がスタートした時から、いつも同じ役割を与えられ続けている。
けれど物語に関与しない名前を与えられていないような人物(名前を認識出来ないが正しいようだが)は、強制されない為いつでも動ける。
そんな立場だから、アントニアがどうして繰り返している世界にいると気付けたのか分からないように、トニーも気付けた理由は未だに分からないままだ。
アントニアの境遇を詳しく知ったのは前回が初めてだったトニーだったが、実際にアントニアに対するアーヴィンの接し方は婚約者を溺愛するという役割を持つ当時のトニーにとっては、最低な男としか思えなかった。
『もし自分が彼女の婚約者だったなら、こんな酷い扱いは絶対にしないのに』
そう考えたのが最初だったのか、それともアントニアと話をしていて感じたのか、アーヴィンの話を聞いていてアントニアという令嬢に感じるものがあったのか。
とにかくトニーは、婚約者のいない立場のモブだったなら、間違いなく彼女を守る為に動いただろうと前回の時に思っていた。迷うことなくアントニアを攫っただろう、と。
だから、今回は自身を縛るものがないから迷うことなくアントニアの一番近くにいることを決め、彼女を満たすために生きると決めていたのだった。
役割としては常にモブではある。
だからこそ、その与えられた役割に自身の意志でアントニアを守ること、そして彼女だけを愛し続けることを彼自身が決めることが出来た。
そうしてアントニアに出来得る限りの時間寄り添い、アントニアが孤独にならないよう気遣い続け、アントニアには多くの人々が気持ちを寄せているという事実を伝え続け、そうやってアントニアの心が少しでも穏やかにいられるよう、柔く包み込んでいった。
そんな風に時間を過ごせば、いくら壊れた心を内に抱え込んでいるアントニアでも、義兄となったトニーの気持ちを感じ取れるというもの。
あのお茶会の前のことだった。
「お義兄様のおかげで、ここしばらくはとてもゆったりと過ごせている気がします」
「そっか。それは良かったよ。アーヴィン様のことはまだ対処出来ないのが申し訳ないなぁ。早く婚約を解消になるといいね…。そうすれば、僕がアンの婚約者になる可能性も出てくるのに」
「…お義兄様は、本当に私との婚約を望んで…くれます、か?」
「当たり前でしょ。前回は僕の役割が婚約者のいる貴族で、しかもその婚約者を溺愛してるっていう設定だっただけで、別に彼女を僕自身が好きだったわけじゃないよ。
あ、でもすごくいい子だとは思ったけど。でもね。アンのことは別だった。僕が望んでこの場所にいる。アンの隣に立てるなら、きっと無茶もする。モブだから出来ること。特にアンの義兄っていう立場の役割ってほとんどすることがないんだ。
今までは義弟君だっけ、彼って婚約者いなかったんでしょ? 特に学院でもアンと一緒に行動もしたことないって話だしね。
だったらいけるって思うよ。問題はアンがそれを望んでくれるかどうか、だよ。だから…今は、そうなるようにって努力中なんだけどね」
「…ふふ、お義兄様ったら。でしたら、私も望んでもいいんですね。私にとってアーヴィン様は鬼門です。怖いです。大嫌いです。
前回は少しだけ、アーヴィン様の気持ちも分かりましたけど、それでもやっぱりアーヴィン様は彼女と関係を深めていったから、何を言われても信じられません。
でも、お義兄様は違います。ずっと私の為にたくさんたくさん気持ちを傾けてくれたし、本当に私を守ってくれてます。
だから…お義兄様と一緒に、……いたい、です。あの…お慕い、しております…」
アントニアとの会話の流れで、トニーはいつものように彼女の隣を望んでいることを軽く話す。
これはいつものことだった。彼にとっては彼女を大事に想う人間が少なくとも身近にいることを示す為、それから口説く為という理由ではあったが、常に何かしら彼女に気持ちを伝え続けていた。
だからなのか、まさか彼女もトニーの隣を望んでくれていることなど気付きもしなかった。
おかげで盛大に驚く破目になるわけだが…。後に振り返ってみれば、二人にとっては笑い話にもなるし、いい思い出の一つとも言えるだろう。
「え? あ、えっと、え? 本当に? アン冗談じゃなくて、本当に!?」
「……冗談では、そんなこと言えません…」
頬だけでなく耳や首まで赤く染めたアントニアは、恥ずかしさや照れからか、俯きがちで、必死にそれらに耐えるように小さく答えていた。
そして、そんなアントニアの隣で両手を胸の前で強く握り込むように組み、神など信じてもいないであろうトニーはこう叫んでいた。
「ああ、神よ! 今日生まれて初めて貴方のことを信じられます! 僕はこの世界に生れ落ち、こんな幸せなことはありません! 感謝いたします!!」
そうしてトニーは、アントニアが驚いて固まっているにも関わらず、彼女の手を取って手の甲に口付けたのだった。
その後は……彼女を自身の膝の上に乗せて、ただひたすら愛でたのは言うまでもない。
前回の婚約者を溺愛するというモブ経験も別の意味で充分生きているようだった。
盛大に照れて真っ赤になったアントニアと、自身も少し頬を上気させつつ彼女を愛でるトニーの姿は、その後グリフィス侯爵邸のあちらこちらで見かけるようになる光景となった。
§§§
その日はあっさりとやってきた。
「お父様、お呼びですか?」
アントニアは父親でありグリフィス侯爵の執務室へと呼ばれ、やって来たところだった。
「座りなさい」
「はい」
執務机の前に置かれたソファセットに対面するように座ったグリフィス侯爵と娘は、ほんの少しだけ緊張した空気の中にいた。
小さく息を吐いたのは侯爵だった。今は父親ではなく侯爵の顔をしている、そうアントニアは感じていた。
「エクルストン公爵から連絡をいただいた。アーヴィン様との婚約のことだ。用件だけ言えば、婚約を解消する旨、了承した、というものだったよ」
「!」
「今までアンとアーヴィン様のことをちゃんと確認していなかったね。済まなかった。
アンがあれほど嫌だと言っていたのも納得出来るだけの材料をトニーが揃えてくれなければ、アンがもっと辛い思いをするまで気付けなかったかもしれない。本当に済まなかった」
「お父様、顔を上げてください!」
オロオロとするアントニアはただただ父親が頭を下げたことに慌てていた。
そんなアントニアに微かに淋し気な目を向けたのは侯爵だった。
「アン、もう一月以上になるか。トニーと随分親しくなったね。もし…二人が望むなら、このグリフィス侯爵家を二人で盛り立てていってくれないか?」
「そ、れは…どういう意味でしょうか?」
侯爵の顔から父親の顔が覗き始めた気がしたアントニアは、問われたことに首を傾げながらも、父親を見つめていた。
侯爵は少し戸惑いを見せながら、でも思い切って言葉にしていた。
「二人が結婚をすることに、血が近過ぎるというわけではないから問題ないと考えているんだ。お母様も二人の気持ち次第だけど、同じ考えだよ。アンはどうかな?」
「! お父様、婚約を…解消したばかりなのに、いいんですか?」
「勿論いいよ。今回の婚約解消は相手の有責での解消だから、アンには何も問題はないんだしね。それに…トニーと結婚となるなら、家族の形が少し変わったとしても、ずっとアンと一緒にいられるから…私達は嬉しいんだよ」
侯爵はすっかり父親として話をしている。そして、アントニアは貴族の娘、と言うよりはただの親子として話を聞いていたのかもしれない。
涙ぐむアントニアに侯爵は慌てて席を立ち、隣に行くと肩を抱き宥める。
「アンが好きなようにすればいい。もう二度と嫌な思いはさせないからね」
「ありがとう…ございます。お父様、嬉し…です。トニーお義兄様と…ずっとずっと一緒に、いたい、です。お父様とお母様とも一緒が……いい、です」
アントニアは涙のせいで、言葉が途切れ途切れになってしまったが、父親としてグリフィス侯爵はちゃんと受け止めて、頷いていた。
「分かった。それじゃ、トニーとの婚約を調えるからね。そうすれば、アンが成人してすぐに結婚も出来るからね」
「お父様、ありがとうございます!」
父親の言葉に何度も頷きながら、娘は笑みを綻ばせたのだった。
お読みいただきありがとうございます。
もう夏の終わりです。学生の皆さんは宿題だとか課題だとか、大丈夫でしょうか。
ありやは適当に宿題を終わらせつつ、学校が始まっても一部の宿題は終わらないままだったな、と。
案外なんとかなってた気が…。悪い見本なので、真似しちゃいけません。
大人な皆さんはそういうのはない分、体調を崩さないようにお気を付けください。
ありやは毎日熱いお茶を飲んで、胃を冷やさないように必死です。胃腸弱過ぎて泣ける…。
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