婚約の解消 7
あのお茶会から比較的すぐ、アーヴィンがアントニアに会うためにグリフィス侯爵邸を訪ねてきた。
二人だけで話をしたいというアーヴィンの願いが叶うことはなかったが、アントニアがアーヴィンと会うことを了承した為、二人が会うことは出来た。当然その場にトニーが立ち会うことにはなったが。
「アン、今日は会ってくれてありがとう。それから…先日は本当に申し訳なかった!
言い訳はしない。理由があるからと言って、それを正当化出来ないのも判ってるから。でも、謝罪をちゃんとしたいと思っている。
何をすれば、アンの気持ちを和らげることが出来るのか…僕には、分からないけど……」
「アーヴィン様、お聞きしていいですか?」
「なんでも聞いてくれ。アンに対して嘘を言いたくない!」
「それじゃ、教えてほしいのです。
どうしてあの日初めて会ったはずの、あの御令嬢を追いかけて、上着を掛けてあげて、一緒に会場からいなくなったんですか?
あの時私のことが頭の片隅にでもありましたか?
それから…あの御令嬢のことを好きになりましたか?」
アントニアに対し、誠実であろうと頭を下げたアーヴィンがそこにいた。トニーは内心鼻で笑いながらただ黙って見ているだけだった。
アーヴィンの言葉の後、アントニアが固い表情のまま彼に問い掛けた言葉は、彼でなくとも息を詰めてしまいそうな問いだった。
アントニアが三つの問いをした。最後の問いは、この世界の核心とも言えるものだった。だから、トニーはアーヴィンが絶対に件の令嬢に好意を抱いたと思っている。例え自覚がなくとも、だ。
なぜなら、この世界のヒロインであるステファニー・メイプルがあの令嬢なのだから。
アントニアから婚約者を奪う、本当の意味での悪役令嬢とも言えるのはヒロインではないか、とトニーは考えていた。そうしてそんな自分は、婚約者のアーヴィンからアントニアを既に奪っている悪役か、と考えれば笑い声を上げたくもなったが、そこは当然のように誰にも気付かれないように表情を変えずに、ただその場に留まっていた。
「あの日の…ことは。どうしてなのか、頭がぼんやりとしている感覚で、正直今の自分とは…別人なんじゃないかと思うくらいに、気持ちとか、考え方とか…理解出来ない部分がある。
信じてはもらえないだろうけど…とにかく……話すよ。
あの令嬢が僕にぶつかって、水差しの水がドレスにかかってしまい、濡れたという事実があって…僕は令嬢が悲鳴を上げた瞬間に彼女を見て、咄嗟に上着を掛けてあげなくてはいけない、と判断していた…。
彼女が部屋から急いで出たから、慌てて後を追って……上着を掛けて、それでもドレスが濡れた範囲が…広くて、風邪をひいてしまってはいけない、と。
……だから、彼女を馬車で送ったんだけど、特にその辺りが頭がぼんやりとしていた気が、するんだ。何かに急かされるような…感覚に襲われていて、屋敷に戻ってからは何も…考えられなくなっていて、アンのことを思い出すことすら…出来なかった。
彼女に対して、好意を持つ理由は何一つないから、好きになんてなるはずがないよ。本当だよ」
「そうですか、答えてくださってありがとうございます」
婚約者の答えに、ただただアントニアはこの世界の強制力はとことん強いのだなぁ、と思うだけだった。そう、彼女自身もこの世界の強制力を身に受けることがある立場だ。だから、そのさい自身の気持ちなんて、あってないような状況になることをよく知っている。
勝手に動く体を前に、心では相手に対し気持ちなんて欠片もないのに、涙を流して悲しむのは当たり前だった。
彼女の場合、繰り返している世界だと知っているから、強制力を明瞭に理解出来る。けど、知らない者なら頭がぼんやりとする感覚なのか、とアーヴィンの言葉で理解したのだった。
目の前にいる婚約者は、アントニアが自身の言葉に何も反論をしないことを不安に感じているといったところだろうか。隣にいるトニーも何も言わないのも、落ち着かない様子を見せる原因かもしれない。
「アン、僕のことを信じてはくれないか?」
「……アーヴィン様、私ずっと思ってました。どうして、いつも、アーヴィン様は二人のお茶会で、何も話をしてくれないのだろう? って。
アーヴィン様は、私の何が良くて婚約を続けているのですか?」
「!?」
アーヴィンの問いは、アントニアの言葉によって意味を為さなくなった。その場にもし、他の人間がいたなら誰もがそう考えただろう。トニーもそのうちの一人なわけだが。
それはアーヴィンも同じだったのかもしれない。目の前にいる彼が大事にしている、大事にしたいと思う相手から突き付けられた言葉は、今までの彼の抱えてきた思いが、何も彼女には届いていなかった証明でもあったからだ。
ただ穏やかな口調で、けれど淡々としたアントニアの言葉は、きっとアーヴィンの気持ちも抉っていただろう。
「あ、え? 何も話を…しなくても、僕はアンがいれば……幸せ、だから……」
「…幸せ? ただ黙ってお茶を飲んで、お菓子を食べるだけの時間が、ですか?」
婚約者であることの意味は、将来的に家同士の絆を強くするための、政略的な意味のある結婚の約束をした立場であることを表明した者、ということだろうか。
婚約は、結婚の約束ということではあるが、この世界の婚約は基本的に政略結婚をする者同士が結ぶもの、という意味で正解だ。つまりは、貴族の恋愛結婚はほぼ望めない。
もし恋愛結婚をしたとすれば、婚約中に恋愛に発展した者同士がそのまま結婚した、ということになる。
もしくは、婚約前に恋愛関係となり、婚約をして結婚したということなのだが、圧倒的に後者は数が少ない。それは、貴族の繋がりが家同士の繋がりを重要視するせいだろう。そして、貴族の子女というものは望まないとしても家の駒という扱いをされることが圧倒的に多いのだ。
そんな婚約というものをアーヴィンは、婚約者であるアントニアとの関係を一つ一つ積み上げる行為をしてこなかったのだ。
だから、今。大切な相手である婚約者本人から、その関係に疑問を呈された恰好なのである。
何も言葉を返せないアーヴィンにアントニアはさっくりと切りつける言葉を投げた。
「私、ずっとあの時間が苦痛でした。アーヴィン様はいつも表情を変えません。笑うこともない、かと言って怒るわけでもない。だから何を考えているのか分かりませんでした。
いえ、今も分かりません。だから…もう終わりにしたい、と何度も何度も口にしかけて、出来ないでいました」
「え?」
「もうお父様には相談済みで、公爵様にもお父様から相談させていただいていると思います。後は公爵様がどう判断されるか、だと思います。
私、好きな方がいます。その方と添い遂げたいと考えています。例えその方と添い遂げられなくても、アーヴィン様とは一緒に生きていけません。
だから、婚約を解消していただけませんか」
「…え?」
アントニアの言葉は、アーヴィンにとっては予想も出来ていないものが並べられていて、無表情が常であるアーヴィンもさすがに取り乱してしまっていた。
だからだろうか。アーヴィンの最後に伝える言葉がそれなのか、とトニーは思ってしまったのは。
「そ、んな。僕はずっと…アンのことが、好きだ。今も…好きだ。アンしか…考えられな、いんだ。
だから…婚約を解消するだなんて、言わないで…くれ」
「……。私はアーヴィン様に対して愛情を傾けたことはありません」
「………僕は…アンを、心から…愛し、てるんだ」
「私には応えられません」
今にも泣き崩れそうなアーヴィンの姿にトニーは哀れだな、とただ思うだけだった。アントニアはきっと何も感じていないのだろう、と考えるトニー。眼鏡のブリッジを中指で軽く弄るトニーは、アーヴィンの顔を見ている。
アントニアはアーヴィンに殺される前に切り捨てる選択を出来たのだから、互いに僥倖だろう。
アーヴィンはアントニアを殺さなくて済むのだし、アントニアだって殺される恐怖を避けられるのだから。
将来的な被害者と加害者という関係性が消えるほうが、婚約解消に伴う双方の家の多少の確執や瑕疵など些末なことだとトニーは思う。
婚約を解消してしまえば、アーヴィンが貴族学院で出会うステファニーとどうなろうと、アントニアにはもう関係のないものに成り下がる。
つまりはアントニアがステファニーに罪を着せられることもなくなるはずなのだ。だから、二人の婚約を入学前に確実に解消出来ていれば、アントニアの生存率が上がるのではないか? とトニーは考えたわけだが、きっとその考えは間違ってはいないだろう。
トニーはずっと二人が話をするのを、ただ見守るためだけにこの場にいたわけではないことを、今思い出したと言わんばかりに、ポンっと手を打った。
二人もトニーの存在を忘れていたわけではなかったが、ずっと黙っていたトニーに、自分達のことだけで手いっぱいになってしまっていたことを、少しだけ思い出して狼狽えたようだった。
「アン、伝えたいことは全部伝えた?」
「はい、お義兄様」
「それじゃ、結論…というか、ハッキリ言っても問題ないか。
アーヴィン様には寝耳に水で、非常に驚かれているようなのですが。
アンとの会話をどうして大事にされなかったのか? そして、それがどういう結果に繫がったのか、しっかり考えて欲しいんですけどね。
考えても…多分、アーヴィン様では答えに辿り着けないなんてことは…ないですよね?」
「あ…の、僕の態度がいけなかった…それは判るんだ。でも…会話がそこまで…大事だなんて…思わなく、て」
アーヴィンの言葉に明らかに呆れと侮りを滲ませた表情を浮かべたトニー。そして、彼が言葉を継いだ。
「………。そうですか。それじゃぁ、僕が今考えてることが判りますか?」
「トニー殿の? なんとなく…だけど、呆れたような口調に感じるので、僕のことを呆れているのか、と…」
「そうですね。会話があれば、それくらい感じられますね。まぁ悟らせないようにする人もいるでしょうけど、今はそれは無視しましょう。
アーヴィン様もアンも、婚約者ですよね。もっと前から二人が話をたくさんしていれば、違ったでしょうね」
「だ…って」
「それじゃ、アンの好きな花が何か知ってますか? その花の中でも特に好きな色は何か知ってますか? 好きなスイーツは? 苦手なものは? 普段どんなふうに過ごしているのかは?」
「!」
アーヴィンが顔色を変えたところで、トニーは追い打ちをかけた。
「アーヴィン様は、どれも知らないのではないですか?」
「あ…どうし…て、僕…はっ」
我慢出来なくなったのか、アーヴィンの綺麗な瞳からは大粒の涙が零れ落ちていた。
トニーもアントニアも、アーヴィンの気持ちに寄りそうつもりは一切ない。あるはずもなかった。
自身を将来殺すかもしれない相手というだけではない。長い間、婚約者として大事にされた記憶のないアントニアだ。嫌いという感情でなら語ることはあるかもしれないが、実際には何も語りたくないほど避けたいと思う相手なのだ。
相手がアントニアに対し、愛情を傾けていると伝えてこなかった為に、二人は大きくすれ違ってしまっていた。これが、繰り返している世界にいると気付いていない時であれば、アントニアもアーヴィンに対し愛情があった。だから、そんなアントニアであればもしかしたら、アーヴィンの気持ちに応えていたかもしれない。
結果的にアントニアがアーヴィンに殺される未来しかないとしても。
「本当に大切な人なら、自分だけが幸せで満足してちゃダメだったんじゃないですか? 相手とその幸せを分かち合えない時点で、自己満足でしかないんですよ。
相手のことを一番に考えてこそ、なのではないですか?
そして何よりも言葉で伝えあわなくちゃ、お互いの気持ちを理解出来ないまま、ってことは…今回のことで学べましたよね?」
「くっ…」
「これは僕個人の感じたことなんですがね。アーヴィン様は、本当にアンのことが好きでしたか?
本当に好きな子のことは、何だっていいから知りたいと思うものなんですけど。
アーヴィン様はどうでした?」
表情を固まらせ、トニーのほうへと視線を向けたアーヴィンは、何かに気付いたような顔をさせていた。
それが一体何だったのかはトニーも分からなかったし、知るつもりもなかった。そしてアントニアは、二人の様子を窺うこともなく侍女のドリーを見ていた。
ソファに座ってはいたけれど、まるで崩れ落ちたような気持ちなんだろう様子のアーヴィンを見て、トニーは小さく息を吐いた。
(本当、面倒臭いな。きっと本気でアンのことを好きなんだろうけど…。自分だけが好きで満足なんだったら、片思いで満足しておけば良かったんだよ。
相手がいるんだから、相手のことを一番に考えられないのかな…。本当糞みたいにバカな奴だな)
そんなことを内心呟きつつ、決してアーヴィンを助けることはない。
今目の前にいるアーヴィンがアントニアを殺したわけじゃないのも理解はしているが、もし婚約したままなら、間違いなくアーヴィンがアントニアを殺す未来しかないことを知っているから。
自身の大切な相手を殺す人間を許すはずもないし、近付けるはずもない。
一番大切なのは、己よりもアントニアだ、とハッキリと理解しているトニーには、まだ数年先の未来ではあるが、目の前の人物がアントニアを殺すかもしれないという事実がある限り、ずっと目障りだったし、何より真っ先に消えて欲しい人物でもあった。
早くステファニーが現れて、アーヴィンを拾っていってくれ、とさえ思うのだった。
お読みいただきありがとうございます。
なんとか投稿も出来て、地味にお話を進められていることに一安心な今日この頃です。
8月中に2章が終わるかも、と考えてたのが遠い夢のようです。無理なのが確定しましたよ…。
単純に時間が取れないだけなんですけど。
トニーが案外腹黒だったなぁ、と書きながら思った回でした。何気に言葉使いも汚い…。以前そういう環境だったんだろうな、と想像出来ますね。
本当にトニーが味方で良かったなぁって思います。というか…対立してたら怖いよ!
いつも今作を読んでくださる方々のおかげでブックマーク登録も、評価も、いいねも地道に増えているので、本当に感謝しております<(_ _*)>
今週は木曜か金曜のどちらかに投稿出来たらいいな、と思ってます。多分大丈夫。
ということで、次回もよろしくお願いします(*- -)(*_ _)




