婚約の解消 5
お茶会当日、婚約者のアントニアを迎えに行くためにアーヴィンはグリフィス侯爵邸へと向かう馬車の中にいた。
本当は彼女の為にドレスを用意したかった。が、まだそれは早い気がして、自身の独占欲を抑えているわけだが、アントニアがそんな婚約者の気持ちを知るはずもない。
侯爵邸に着き、馬車から降りて玄関でアントニアを待つアーヴィンの前に、アントニアと義兄となったトニーの二人が並んで歩いてくるところだった。
アントニアはトニーにエスコートされていた。
彼女は柔らかく微笑み、まるで薔薇が色付いたかのような頬に、一瞬息が止まりそうになったアーヴィンは、深く息を吸って気持ちを紛らわした。
アーヴィンを視界に収めたアントニアは、トニーから手を離し婚約者に向けて先程まで見せていた笑顔とは違う種類の笑みを見せた。
その意味を…きっと正確にアーヴィンは理解したはずだったが、もう自由時間は終わろうとしている。
馬車に乗ってしまえば、強制力しかない時間だった。だから、アーヴィンが本当はどう思っていても関係ない。アーヴィンがアントニアの笑顔で感じたはずのものを、彼自身ないものとしてしまうはずだから。
馬車に乗る直前にアントニアはトニーに腕を取られ、耳元で囁かれた。
「アン、迎えに行くから絶対にお茶会の開かれてる場所から動かないでね。僕はモブだから、自由に動けるんだ。証拠になりそうなものは僕が集める。だから、アンは動かないで」
「ええ、お義兄様」
そんな二人を横目にアーヴィンはもう自由時間を終えていた。強制力が働き始めたアントニアがアーヴィンに手を引かれ馬車に乗り込むと、馬車の中はやはりいつも通り会話はなく、アントニアは唯一自由になる視線を窓の方へと向けて、気を紛らわしていた。
§§§
お茶会会場となっている伯爵家に辿り着くと、案内されたのは多くの人がすでに集まっていたサロンだった。
主催者の令息とその婚約者の令嬢が並んで迎え入れてくれ、二人に挨拶をして中へと入った。
大きな窓がいくつもあり、太陽の光が降り注ぐように作られたサロンは、ただ部屋に留まっているだけで、穏やかな気持ちになれそうだ、とアントニアはいつも思うのだった。
調度品も品の良いものが揃えられていて、馴染むと感じるからだろうか。壁に飾られた絵画も、花の活けられた花瓶も、素晴らしいものばかりだった。
アーヴィンは相変わらず無表情だったし、無口だった。が、エスコートはちゃんとしてくれていた。
皆が席に着き、それぞれのテーブルでお茶やお菓子を楽しみながら会話を弾ませる頃、アントニアは気疲れもあって少しだけ席を外すことになった。
このお茶会は強制力しかない。だから、体調など全く悪くないにも関わらず、まるで不調になる演技をしている役者になっているのでは? といつも感じてしまう場面だった。確かにアーヴィンと一緒にいるというストレスはあるのだから、気疲れは嘘ではないけれど。
サロンから出て、サロンの扉がよく見える位置にある窓際で風に当たっていると、サロンのほうで何か大きな音が聞こえた気がした。
が、それがいつものことだというのはアントニアは判っていた為、驚いた表情を浮かべてはいても、内心驚きも何もなかった。
(ああ。彼女と婚約者の初めての出会いの場面…かしら。早くこの茶番が終わらないかな)
サロンの扉のほうを見つめていると、中から慌てて飛び出してくるピンクブロンドの少女がいた。そして、その後を追って婚約者が出てくる。
少女に近付くと自身の着ていた上着を肩に掛けて、彼女の肩を抱くようにして二人が外へと向かう廊下を歩いていくのが見えた。
「…何? どうしたの? アーヴィン様がどうして見知らぬ方と一緒に?」
(あー、本当。この茶番苦痛だわ。言いたくもない台詞が勝手に口から出るのも、本当嫌で仕方ないわ)
アントニアは突然、婚約者が知らない少女と消えてしまったことで、ハラハラと涙をこぼしていた。
(本当苦痛だわ。嫌いな相手に泣きたくもないのに泣くとか、有り得ないわ)
しばらくしてサロンから主催者の婚約者の令嬢がアントニアの元へ来るのが見え、慌てて涙をハンカチで拭うとアーヴィンに何があったのかを教えてもらった。
アントニアが席を外したタイミングで、アーヴィンの席近くを歩いていたピンクブロンドの少女がいたこと。そして、その少女に気付かずアーヴィンが立ち上がったところで、少女とぶつかったこと。
ぶつかっただけなら良かったが、その拍子に近くのテーブルに置かれていた水差しやグラスに少女が倒れ込んでしまい、ドレスを濡らしてしまったこと。
少女がドレスを濡らしてしまった為、主催者側は着替えを出来るようにと声を掛けようとしたが、その前にアーヴィンが動き少女に上着を貸して、そのまま二人揃って帰ってしまったようだ、ということだった。
そうなのだ。婚約者のいる者しか参加出来ないはずのこのお茶会に、どうしてなのか婚約者のいないステファニーが参加していて、尚且つ婚約者を放り出してアーヴィンはステファニーとお茶会の会場を抜け出すわけだが、これの意味は誰でも容易に想像できるのではないだろうか?
その場に取り残された婚約者の片割れがどんなふうに陰口を言われることになるのか。
このお茶会でヒロインとヒーローの初めての出会いの場面だから、とても大事なものなのだろう。この繰り返す世界では。でも、その犠牲になり続けてきたアントニアにとっては、ただこの世界に貶められる一歩ともなる場面だった。
ただ救いはあった。このお茶会の会場で一緒のテーブルについていた令息令嬢や、主催者の令息と婚約者はちゃんとアントニアはただの被害者だという認識を持ってくれるからだ。
貴族学院に入学後も親しくする友人達はこのお茶会でアーヴィンの振舞に疑問を感じた人達ばかりだったのだから、決してアントニアの交友関係は悪くはないと言っていいのだろう。
そして、今回はトニーもすでに会場内で動いていた。アントニアがサロンから出た直後には来ていたようだ。
アントニアを迎えに来たという体で、すでに会場内に入り込んでいたおかげで、ヒロインとヒーローの出会いの場面をしっかりと確認し、その後二人がどうなったのかも確認していた。
後で知ることになるのだが、さり気なく二人の後を追い、実際にアーヴィンとステファニーがどんな会話をしていたのかも調べ上げていた。
それを知ったアントニアが、軽くトニーに引いたことは内緒にしているらしい。
お茶会の会場となったサロンでは、誰もが婚約者のアーヴィン・エクルストンという人物ではなく、アントニアを迎えに来た義兄のトニー・グリフィスという人物に注目することとなった。
本来であれば婚約者に捨て置かれたアントニアという存在が、哀れにも口さがない者達によって貶められるだけの場面だったはずだが、すでにヒロインとヒーローが立ち去った後の自由時間となっていた為、アントニアも自由に動けるようになっていた。
トニーという義兄が、アントニアを守る為に現れた騎士のような存在となり、か弱く儚げにも消えてしまいそうな義妹を悪い婚約者から守っているように、その場にいた令息令嬢達には映ることとなった。
それと同時に誰もが理解したはずだった。
エクルストン公爵の嫡男は、婚約者であるグリフィス侯爵の令嬢よりも、初めて会ったばかりの男爵令嬢を優先させたこと、何より男爵令嬢が婚約者がいない身でありながら、お茶会に「勝手に」参加し、婚約者のいる令息を連れ出すことに成功したこと、二人のことが当然謂れのない噂となるのに時間がかからないだろうこと。
アントニアはもう泣いてはいなかったが、義兄の胸で涙を隠すように肩を抱かれており、その姿は見る者の胸を締め付けるようだったと言われるのにも時間はかからなかった。
お茶会の帰り、馬車の中でのことだ。トニーはアントニアに婚約者がどんな様子だったのかを伝えていた。
アーヴィンとステファニーのことは、お茶会主催者の婚約者から伝えられたこととほぼ同じだったため、アントニアは会場であるサロンでは故意に何かがあったわけではなく、強制力の問題なのだろうと考えた。
が、トニーはそうは思っていないようだった。
「お義兄様は、アーヴィン様のことをどう感じました?」
「直接見てたんだけどね、彼は完全にアンのことが頭にないって感じだったかな。何て言うのか…ステファニー嬢しか見えないようにされてるような…そんな感じっていうのかな。
サロンにいた他の令息や令嬢のことも見えていないのかもしれないと思うくらいには、様子がおかしかったよ。あれでも公爵家の嫡男なんだからこういう場での振舞くらい弁えてるでしょ。
なのに、そういうのを全部すっ飛ばしてるわけだからさ」
「…そうなんですね。私はいつも廊下で取り残される形だから、現場は見てなくて…なのでお義兄様が現場を見て、そう感じたのであればきっとそうなんでしょうね」
実際の所、アーヴィンがステファニーと交流を始めるのは学院に入学してからなので、今回のことはただの切っ掛けでしかなく、二人がこの時点で交流することはない。学院で出会い、二人が交流していくうちに、過去二人が出会ったことがあるという思い出作りなんだろうとアントニアは考えている。
だからこその強制力がある出来事なのだろう。
アントニアが今までに繰り返しアーヴィンのお茶会以後の様子を何度となく確認したことなので、間違いないのだった。
「で。アンはお義父様にはいつ伝えてるの? それと公爵様には伝えるの? 今まではどうしてたの?」
「いつもショックで寝込むことになるので、私から両親に話すのが噂よりも後になります。だから、公爵様には伝えることがないままです」
「…へぇ。公爵様の耳に噂が入るまで、彼は公爵様に知られることなくアンのことを泣かせたままなのか…。許せないな」
不穏な言葉を紡いだトニーに首を傾げたアントニアだったが、その辺りも強制力が働く都合だから仕方ないと伝えれば納得してもらえたようだ。
眼鏡のレンズが反射のせいかトニーの目元が見えなかったように感じたアントニアだったが、よく見ればトニーの目が細くなり口角が少し上がっていることに気付いた。
アントニアは、その笑みの意味を計り兼ねて少し戸惑うのだった。
「大丈夫。僕がアンの代わりに動くから。モブだから強制力ないんだよね。そういうわけだから、公爵家には今日中に彼のしたことが伝わるよ。安心して」
そう言いながら、アントニアの頭を優しく撫でるトニーだった。
グリフィス侯爵邸に戻ると、アントニアを部屋まで送り届け、早々に自室へと戻ったトニーは、エクルストン公爵宛に手紙を認めていた。
本来なら当主であるグリフィス侯爵が書くべきことなのだろう。が、事が大きくなるのもどうなのか、という現実もあった為、義兄としての立場から義妹を心配する気持ちを全面に押し出しつつ、婚約者に放置された事実と、その婚約者が他の令嬢を連れ出して二人で消えた、という事実を伝えたのだった。
あえてアーヴィン当人に抗議するのではなく、当主に報告という形でしばらくアントニアにはアーヴィンと会うことを控えさせたい、というさり気なく距離を取らせる作戦でもある…らしい。
そして、トニーは手紙を届けるよう侍従に言った後、侯爵と夫人にお茶会でのことを伝えたのだった。
すでに公爵には連絡もしていることも付け加えている。
当主である侯爵が連絡を入れるということは、重い意味を持つ。けれど、婚約者の義兄からの報告という形での連絡ならまだそれほど重いものではなくなる。勿論次期当主と見做されている義兄の言葉なのだから、それなりの意味はあるのだが。
その事もあり、自ら急ぎ動いた旨をトニーが伝えれば、侯爵からは助かったと返された。
現時点で、前当主はまだ健在で孫達のことをとても楽しみにしていること、それからこの婚約を強く望んだのが相手方であること、その相手方の強く望んだはずの本人がアントニアを放置した時点でかなりの失点となっていること、取り敢えずはまだ婚約を解消するのか悩ましい状況でしかないが、次に何かあれば解消を申し出ても問題ないだろうと侯爵は考えているようだった。
勿論夫人から訴えられている、アントニアとアーヴィンが会話もなく過ごす時間が、どう考えても良好な関係を築くというものからかけ離れている事実も大きいようだ。
たとえそれが、アーヴィンにとってアントニアへの想いを強いものにする時間になっていたとしても。
お読みいただきありがとうございます。
そして、今回また文字数多くなりました!
文字数が多すぎて読み辛いとか…あったら、ごめんなさい(*_ _)人
なんとか今週中にもう一話は投稿したいな、と考えてましたが無事出来たのでホッとしているところです。
次の投稿は、来週の金曜日を目標に投稿出来ればいいな、というのがあるのですが、厳しいのも事実なので…来週の投稿はお休みになる可能性が高いです。
どうなるのか分からないので、運よく投稿出来たらいいなぁ、という感じです。
……がんばろう自分。
ステファニーがどうしてお茶会にいたの? とか、そういうのは…所謂この世界の舞台になってる小説で説明されてる部分ということで、現時点では説明を省いてます。
小説内で語られてるエピソードはステファニーが後日説明するという形を取れるといいな、と思ってます。アントニアとトニーが知り得ない内容になるので…。
トニーのことも書けるといいな、と考えてます。…一体どんな過去を生きてきたのか。謎が深まって終わりになりそうですけど(・ε・)
投稿を再開しましたら、またよろしくお願いします<(_ _)>
 




