ただ幸福だと思っていたのは誰だったのか 3
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詳細は活動報告にて。
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非常に助かります(^▽^)
アントニアが領館に戻る時間が遅くなったのは、本を読むのに集中していたから、ということで皆に納得してもらえた。実際にそうだったので、仕方がない。とにかく無事であったため今回の事は不問とされた。
ただし、次からは注意しなさい、と公爵夫人にも公爵にも親のように叱られはしたが。
「一体どこでそんなに本を集中してしまうくらい読んでいたんだい?」
「えっと、屋敷林に入るとすぐに少し開けた場所がありますよね。その近くにある古木の根元で読んでいましたの。あまりにいい環境でしたから、熟読出来ましたわ。途中、動物なのかじゃれ合うような様子もありましたけど…」
「そうだったのね、確かにあの小さな草地は花がたくさん咲いていて、とても素敵だものね」
「動物まで来るくらいに、アンの気配が消えてたのかい? それは…狩りをするならありがたいような気もするが、アンは淑女だからね気を付けておくれ」
「はい、公爵様。もうこんなことがないように気を付けますわ。たくさんご心配おかけして、申し訳ございません」
「いいのよ、貴女が無事だったのだもの。大事な未来の娘よ。心配して当たり前だわ」
などという会話を、公爵夫妻は実の息子の前で展開させていたのだが、その息子アーヴィンは婚約者のすぐ近くで、恋人と自身が何をしていたのかを彼女に気付かれていたことに顔色を悪くしていた。
そしてその隣では友人のトニーがそんなアーヴィンに冷めた視線を向けていたのだが、アーヴィンが気付く事はなかった。
アントニアはアーヴィンをスルーして彼女に宛がわれた客室へと戻っていった。
間を置いてから追うようにトニーがその場から消えたわけだが、そのことに誰も気付かなかった。
§§§
アントニアが部屋に戻ってから時間がどれくらい経った頃だろうか。ドアをノックする音が響いた。
侍女のドリーが対応に出ると、ドアの向こうにはトニーが立っていた。
ドリーは彼が主であるアントニアを見つけてくれたことを聞いていた為、改めてトニーへと礼を伝えているようだ。そのことに苦笑しながらトニーはドリーに頭を上げるよう伝えていた。
それから、アントニアが彼を部屋へと招き入れた為、ドリーは一度お茶の用意の為部屋から下がっていった。
「調子はどうです?」
「特に問題はありませんわ」
「それなら良かった。…アーヴィンから接触があったのか、少し気になったものだから来てみたんですよ。
彼はまさか君に知られてしまっただなんて思いもしなかっただろうから、どう取り繕うべきか悩んでいるといったところかな」
「そうかもしれませんわ。でも、ここで正直に伝えてくれたら私は救われるのに、ずっと誤魔化され続けるのですわ。おかげで誰かのせいで、私は罪を着せられて、誰かに殺されるっていうオチが待っているんですけど」
「うーん。アーヴィンは素直に物事を言えるタイプじゃないから、難しいでしょうね。結果的にそのせいで、アントニア嬢が苦しめられるっていうのが、私には納得いかないんだけど…」
ドリーが戻ってくるまでの時間、それほど長くない時間で二人が話すことと言えば、やはりこの世界に関わる出来事となる。それでも、今日という日はアーヴィンが婚約者を裏切り、恋人を優先させる日であり、完全な婚約者との決別とも言える日だ。
当の婚約者は、裏切った相手のことなど実は歯牙にもかけていないのだが、それを彼が知ることは未来永劫ない。
アントニアの偽ることのない本音は、それを聞くトニーにとって歯痒くツラいものだった。
「本音を言えば、今ここで死ねるなら死にたいくらいですのよ。死に方くらい自分で選びたいじゃないですか」
「死に方くらい、ですか。貴女の立場ならそうなのかもしれませんね。穏やかに暮らすことすら高嶺の花みたいな憧れになってしまってるんでしょうから」
「ええ、そうですわ。私のささやかな希望は、ただ穏やかに生きること。その為なら結婚も望みません。生涯修道院で生きるのもいいかも、と思っておりますから」
「勿体ない、と思いますよ。今の私では貴女を望めないのが悔しいと思っています」
トニーは、今与えられている役割の彼ではなく、本来の、ただのモブでありながらもかつての記憶を持ち続けて生きているトニーという彼自身の気持ちを吐露した。
「…何のお話しでしょうか?」
「今の私は貴族で、婚約者がいる役割です。実際に婚約者のことを愛しているし、彼女との将来しか考えられないのです。でも、そういう役割とは関係のない『僕』という立場でなら、貴女を守りたい、慈しみたい、と思ってしまっているのです」
突然の告白のような言葉に、目を瞠り、緊張した様子を見せたアントニアだったが、すぐさま頬が紅潮しだしたことでトニーは自身の言葉が彼女に届いたことに安堵した。
「今から貴女の友人の婚約者としての私ではない、僕自身の言葉として伝えます。
信じてもらえるかは分からないけれど、でも信じて欲しいことなので、伝えます。
…きっと今回も貴女は望まない死を与えられることになると思います。でも、もしまた…次があれば。
その時は必ず貴女の側に行きます。そして、貴女を守れるように最善を尽くします。
だから…その時は、僕を選んではくれませんか? 例えアーヴィンと婚約していたとしても、です」
真剣な目でアントニアを見つめるトニーの言葉は、今まで繰り返し生きてきた中で初めて彼女だけに向けられた言葉だった。
彼女へ向けられたアーヴィンの気持ちも、結局は強制力の前に消え去ったも同然だった。もしかしたら、まだ彼の中に残り火があるのかもしれない。
けれど、その残り火もいずれ消えていくのだと分かっているトニーは、アントニアがアーヴィンと幸せになる未来などないことも分かっている。何よりトニー自身がアントニアを望めない役割を与えられている。
それなら今ではなく、次の未来に希望を託す話をしているのだった。
アントニアにも、その未来を掴み取ってほしい、出来るのならそれを助けるのは自分でありたい、そう考えているのだった。
「…次の時に、貴方が助けてくださると、そう仰ってる…のですよね?」
「ええ、そうです」
アントニアが考えているその時にドアがノックされ、侍女のドリーの声が聞こえた。そして、室内に入ってくる。
ドリーは二人の前に紅茶の入ったカップを置き、部屋の隅へと行く。婚約者同士でもない独身の男女が二人きりでいるのは醜聞とも言えることだから、侍女の動きは当たり前のことだった。
アントニアはトニーの問い掛けに答えることはなかった。しばらくお茶を飲みながら、彼の婚約者の話をして共通の話を楽しんだ。
彼が退室するタイミングで、アントニアは口を開いた。
「先程のお話しですが、すぐには決められません。ですが、前向きに考えてみます」
ただそれだけを伝えるだけだったが、トニーにとっては充分だった。
そうして、エクルストン公爵領からそれぞれが帰るまでの間、アントニアはアーヴィンとはほぼ接触もしなかったし、トニーはトニーでアーヴィンが彼女を裏切っていることを知りながらも、知らぬふりをして過ごした。
§§§
 
夏季休暇が終わり、学院に戻った。そして、アントニアは日々を静かに過ごしていた。
時折、トニーの婚約者と、トニーを交えた三人で出かけることはあったが、基本的には学内では令嬢の友人達と過ごしていた。
アーヴィンとステファニーは、アントニアを無視して二人で過ごす時間が増えていったようだ。
これからはアントニアに強制力が働く時間はほとんどない。
つまり、アントニアがしたとされているステファニーに対する数々の嫌がらせは、アントニアがしていないのはハッキリしている。が、それは証明出来るものではない為、結局は「断罪されるのだろう」と、彼女は思うだけだった。
彼女にとってはただ諦観の二文字で生きているだけだったから、だろうか。
繰り返してきた日々で彼女がしたとされる嫌がらせは、一学年ではなくアーヴィン達の親密度が高くなっていく二学年の後半からだ。今はまだ彼女は何もしない時期なのだ。
一学年の頃は、アーヴィンに直接話し掛けることが主なことだから。けれど、それも今はもうない。
だからこその諦観なのだろう。
それから、トニーの婚約者である友人とトニーの三人で過ごすことも徐々に増えていった。友人はアントニアが置かれた状況にいつも憤慨していた。
婚約者のアーヴィンは、教室にステファニーを招き入れることを常とするようになっていたからだ。
それに伴い、トニーはアーヴィンの友人という立場を捨てるようになった。
アーヴィンの友人の令息達からどうしてアントニアの傍にいるのかを問われれば、自身の婚約者がアントニアを信頼していることと、婚約者がありながら恋人を作るような人間は信頼出来ないとハッキリとアーヴィンに対し拒絶する言葉を発していた。
そのこともあってなのか、アーヴィンの元にいた友人達の中には離れた者も何人かいたようだった。トニーの言葉に否定出来る要素がなかったらしい。
アーヴィンは公爵家の嫡男という立場なので、離れられないでいる者もいるようではあったが。
以前の世界では、アントニアに対する悪意ある噂…例えばアーヴィンと親しくしている令嬢への嫌がらせはアントニアがしているかもしれないという憶測や、断定しているようなものなどが広まり始めたのが秋の終わり頃だったが、今回はまだそんな噂は広まる様子がない。
多分トニーという存在が大きいのだろう。そして彼の婚約者の存在も。二人は周囲から仲の良い婚約者同士で恋人だというのはよく知られていた。
そんな二人がアントニアの味方だというのは、アーヴィンとステファニーを美化するような噂があっても拒否感を持って学生の口の端に上る程度だった。
周囲のアントニアについての悪い噂を、アントニアは実際に行っているわけではないため、ただ淡々と素知らぬふりで過ごすだけだった。
それが出来たのは、いつだって彼女に寄り添ってくれていた友人の令嬢達のおかげだった。今回に限って言えば、トニーという存在も大きかった。
そして、冬を迎え、冬期休暇となった。
アントニアは王都にあるグリフィス侯爵邸へと戻り、家族とゆっくり過ごしていた。
とても穏やかな午後、なんでもないような静かな日だった。
アントニアは自室に戻ると、崩れ落ちるようにソファに座り込んだ。
「疲れる…。もう早く全部終わらないかな…。茶番もまだまだ続くのに、こんなに疲れてて大丈夫、なのかな…」
一人きりの部屋で言葉を溢す。
疲れ過ぎているのかもしれない、そう彼女は自身を振り返っていた。
なぜなら、絶対に死ねないだろう自分の首にナイフを当てているからだ。座り込んでいたソファから文机の上に置かれていたナイフが目に入った。
ペーパーナイフが見つからなくて、ナイフで手紙の封を切った時に仕舞い忘れていたものだった。
何気なくそのナイフを手に取る為にソファから立ち、机と近付いて行った。
そして、手に取ったナイフの刃先に魅入られるように見つめた後、何も考えていないだろうアントニアは、ただナイフを首に当てていた。
「これ、ちゃんと首を切ることが出来て、血が流れて、死ぬことが出来たら、私が今回やってきたことに意味はちゃんとあったってことになるわよね。……やってみようかしら?」
にっこりと笑みを浮かべた彼女は、とても美しかった。首元の物騒なものがなければ、誰もが見惚れる程の柔らかで美しい姿だったはずだ。
そして、彼女はその表情のままナイフを思い切り上から下へと振り切るように引いた。
何の偶然なのだろう。それとも必然だったのか。
彼女の弱い力でも案外あっさりとその柔らかな皮膚をナイフが引き裂き、頸動脈も傷付けていった。そして、彼女はその痛みと共に急激に失われる自身の体温に、小さく安堵の息を吐いてから息絶えたのだった。
まるで穏やかに眠りにつくように、微笑を浮かべた彼女は、ようやく解放されたのかもしれない。
今まで何度も繰り返してきた、アントニアという侯爵令嬢だけが犠牲を強いられることで成り立っていた世界が、初めて壊れた瞬間だった。
お読みいただきありがとうございます。
いい塩梅にアントニアが壊れました…。というか、壊れていて当たり前だと思いますが。
周囲に与える影響は…、繰り返し続けてる世界に対して一番でしょうか。
次は軽くざまぁになる…んじゃないかな、と思います?
次回で1章が終わりになります。
 




