ただ幸福だと思っていたのは誰だったのか 2
エクルストン公爵領は、とても賑わっている大きな街を擁する場所だと納得しながら、街散策を無事終えられたアントニアだった。
(本当、問題が全く起こらなくて良かったわ。街にいる時に何かあったら、正直その場で死んでしまいたくなっただろうし。きっと死ねないけど)
領館に戻る途中、馬車の中でアーヴィンは機嫌良さそうに過ごしていた。余程楽しかったようだ。
翌日はエクルストン公爵とアーヴィンの二人で領内の視察に出かけていった。来客中なのに出かけるということは、余程の何かがあったのだろう、とアントニアは考えるにとどめた。
領地のことであれば、他領の人間が聞いてはいけないこともあるだろうと思ったからだった。
それに、アーヴィンとステファニーが領地で出会う時期だろうというのも思い出したからだ。
視察から戻ってきた二人は忙しそうにしていたが、アントニアは客という立場だから関わることはなかった。代わりに公爵夫人と過ごす時間が増えていた。
「アーヴィンがお相手出来なくてごめんなさいね。あの子も領地経営を徐々に覚えていく為に動くようになったのよ。だから、あまり一緒にいられないけど…」
「大丈夫ですよ。大事なことを学ばれているのですもの、頑張ってるアーヴィン様を応援いたしますわ」
「ありがとう。本当、アンは優しくていい子だわ。あの子のお嫁さんになってくれるだなんて、本当嬉しいのよ。お義父様がアーヴィンやアンが生まれる前に決めていた婚約だけど、貴女がお相手で本当良かったって思ってるのよ」
「ありがとうございます。そんな風に思っていただけるだけでも、嬉しいです」
公爵夫人に気に入られているアントニアは、アーヴィンよりも夫人と過ごす時間の方が多かったのだが、アーヴィンといるよりも安心感が感じられるのか、気持ちの上では落ち着いていられて良かったようだ。
きっとステファニーと何処かで会っているはずだから、このまま放置されてるほうが嬉しいと思っていることをアーヴィンは知らない。
アーヴィンの前にこの世界のヒロインたるステファニーが姿を見せたのは、ちょうどアーヴィンが領館にずっといられない頃だった。
彼女が偶然エクルストン公爵領を訪ねたのは、彼女の親戚の住む町に行くためで、決してアーヴィンに会いに行くためではなかった。本来ならそうだった。本来、なら。
ステファニーが自らアーヴィンに会うために行動をしていないのであれば。
このループする世界は、映画のようなものだ。同じ物語を皆が再現するように繰り返し演じ続けているような世界だ。
演劇ではなく、映画のようなものという意味は…誰もがそのスクリーンに「たった一度きりの人生」を「たった一つしか選択肢がない」かのように、『繰り返し』生きているからだ。
そのことに気付いているのは、アントニアとトニーだけ。二人だけが真実を知っているだけで、他の人間は気付いてはいない。
それに気付けない時点で、この世界の理とは別の知識や記憶がある者がいたとしても、ただの異質な存在でしかなく、この世界の強制力には勝てないという事実の前に意味がないのだった。
もっとも、アントニアとトニーの二人が、この世界の真実に勝負を挑むことなど考えてはいないのだから、そもそも関係のないことではあったが。
そうして、この世界の強制力が働き、ヒロインのステファニーとヒーローのアーヴィンは、貴族学院を離れた場所で出会ってしまったのだった。
「アーヴィン、様?」
領都から馬車で一時間と離れていない町の市場が開かれている場所で、二人は偶然にもすれ違った。最初に声を掛けたのはステファニーの方だった。
それに対し足を止め、声の主の方へと顔を向けたアーヴィンがいた。二人は強制力の前に、互いの本来の感情に関係なく、視線と視線を絡め合うと同時に互いが一緒にいなくてはいけないと、何故だかそう感じてしまっているのだった。
アーヴィンの心の奥底にあるアントニアへの恋情は充分にあったけれど、それが消えていくのではないかという程の感情の大きな揺れがそこにあった。
きっとそれを、他者は「一目惚れ」などと呼ぶのだろうが、アーヴィンにとってはアントニアに対してそれを経験していたためか、ステファニーへのそれを一目惚れとは感じることはなかった。
それでもアーヴィンの中にあるステファニーへの感情は、アントニアへのそれを上回るものであり、穏やかなアントニアへの感情は激情の前に淡く消え失せるだけのものだと、アーヴィン自身も思うのだった。
この日から毎日のようにアーヴィンは、ステファニーとの逢瀬の為、日々視察と言い訳をして領館から出かけるようになった。
アントニアと過ごす時間などもう存在しないと言わんばかりの毎日となった。
§§§
エクルストン公爵領に滞在するようになり、十日経った頃。
アントニアは領館の庭園から続く屋敷林のほうへと散歩をすることにした。護衛の必要はない場所ということもあり、その日は侍女も護衛もなしで動くことにした。
「とうとう強制力が私に働き始めたわ。庭園に出るのに侍女が一緒に行かないってことは普通じゃないのに、更に奥の屋敷林のほうへの散策だったら、絶対に護衛は必要だから私が要らないって言っても付けられるものよ。だけど、護衛を要らないって言うだけで許可されるんだもの。間違いなく強制力が働いてるのよね」
アントニアは独り言ちる。誰に聞かれることもないそれは、口を開いていても声が出ることのないものだったかもしれない。
庭園をゆったりと歩き、奥へと続く屋敷林へと歩を進める。アントニアの意思とは関係なく。
ただ少しだけ、この世界にアントニアの意思を尊重してもらえたと感じたとすれば、手にはお気に入りの本を持てたことだけ。
いつもそうなのだが、アントニアがアーヴィンとステファニーの逢瀬を見ることになるのは、二人が会う場所に辿り着く少し前だ。
これは時間の調整を何度かしたことがある。
故意に遅く行けるのか? 早く行ったらどうなる? というような。
そして分かったことは、この場面に関して言えば強制力の中心人物はアントニアだということだ。
つまり、アントニアが二人の様子を見かける時間には指定がされていないのだ。
遅くに二人が出会う場所へ行った時にも、早い時間帯に行った時にも、二人はアントニアが到着してから十分から二十分程すると必ず現れたからだ。
とは言っても常識の範囲内の時間でしか自由が利かないため、アントニア自身はそれほど早くも遅くもない、自分に都合のいい時間帯で動くようになった。それが今日だ。
「本当なら私が到着する前の二人の様子を見てみたいって思うけど、そういう…舞台裏? を見るのも野暮よね。残念だけど、諦めましょうか」
そう呟くと、いつもアントニアが二人の逢瀬を見ることとなる屋敷林の中でも日当たりのよい少し開けた場所に花々が咲き乱れる場所があったが、その手前の木陰を落としている大きな古木の根元にハンカチを敷いてアントニアは座り込んだ。
手にした本を開き、そこに視線を落とす。ちょうど、座ってしまうと花の咲き乱れる日差し溢れる草地からはアントニアの姿が古木の前に生い茂る低木の影になり見えなくなる。
アントニアが古木の根元に座って十五分程経った頃、遠くから二人の男女の声が聞こえてきた。それが誰のものかなんて知ろうとしなくても分っていたが、強制力が働き始めたアントニアは、本を読んでいた顔を上げ、声のほうへと顔を向けていた。
声の主の二人は、アントニアに気付くことなく、花の咲き乱れる草地に辿り着く。アントニアは、現れた二人を見てただただ驚くしかないといった表情を浮かべている。
(早くこの茶番が終わればいいのに)
そんなことを考えているなんて思えないほどの、困惑した様子を、ただただショックを受けているのだと表情だけで示しているアントニアだったが、これもアントニアが望んでしているものではなく、ただの強制力のなせる業だ。
そして見たくもない二人の逢瀬を見てしまい、二人が立ち去るまで二人の行動も会話も全て見聞きしてしまうのが、この世界のアントニアへ強いる出来事だ。
が、今回のアントニアは本を読むことを主目的としているため、二人がこの場所へやって来たことと、二人が睦み合っているという事実を耳で確認した後は、全てスルーして本に集中していた。
この時点でアントニアの強制力はほぼ終わっているようだ。
(やっと婚約者が恋人と気持ちを通わせてくれたわ。やっと。これで私も解放されるのね。
もういっそのこと、ここで死ねればいいのに。殺されるくらいなら自分で死に方を決めたいわ。例え苦しい死に方になっても。
そのほうが自分の責任で死んだってことになるのだもの)
アントニアの考えはあくまでも、嫌いな婚約者との円満な婚約解消だったが、ここまで来るとそれは望めない展開なのが分かっている。だから、死に方くらい自分で選びたいと願うようになっているのだが、実際にはそれも難しいことを知っている。思うだけなら自由だから、とアントニアは考えている。
そんなアントニアを余所に件の二人は予想外に痴態を晒しているようだ。が、アントニアには聞こえもしなければ、見ることもない。アントニアにとっては邪魔な二人など存在しないも同然だった。
(嫌いな存在なんか、視界にも入れないし、耳にもしないのよ。そうでないと私が死んでしまうもの)
そう内心思いながら、小さく笑うアントニア。「もう既に私は壊れているんでしょうけれど」と思いながら。
二人がいつの間にか消えていることに気付きもせず、ふと顔を上げれば学院で見かけた彼女と同じ異分子であるトニーがそこにいた。
「お久しぶりです。こんな場所で一人読書ですか? もうそろそろ日も傾く時間ですから、戻りませんか?」
「あら、お久しぶりです。どうされたのです? 貴方もこちらに招待でもされましたか?」
「ええ、されたんですよ。ちょうど今日こちらに到着したのはいいんですが、アントニア嬢がまだ戻らないと、領館中パニック状態でしたよ。で、私も捜索隊に加わって、貴女を探していたんですが…のん気に本を読んでる貴女を見つけた、というわけですね」
「まぁ! そんなに時間が経っているなんて気付きませんでしたわ。探して頂きありがとうございます。それでは、急いで戻らなくてはいけませんね」
「そうですね…とは言っても、実際に何かあったのではありませんか?
愚痴があるようなら、お聞きしますよ? というわけで、ゆっくり歩いていきましょうか」
「それでは…愚痴に付き合ってくださいませね。とは言っても、殆ど見ても聞いてもおりませんから、嘗ての二人の、ということになりますけど」
「ええ。それでは二人だけの秘密といたしましょう。私達は同士ですし、ある意味共犯関係にもなるのではないか、と考えておりますしね」
「…共犯関係、ですか?」
「そうですよ。だって、私達しかこの世界のルールを知らないでしょう? その中で私はアントニア嬢を守って差し上げたいと思ってるんですよ」
「…私を、守る? よく分かりませんけど、お気持ちは有難く頂戴いたしますね」
「今はそれで充分ですよ」
日が傾きかけてきた屋敷林はもうすでに暗くなり始めていた。時折足元の木の根や石に躓くアントニアの為にトニーは腕を差し出して、彼女を腕につかまらせたのだった。
「足場が悪いですから、私がエスコートすることを許していただけると助かります」
「ありがとうございます、こんなことならもう少し早くに帰るべきでしたわ」
そんな風に二人が並んで歩く様は、まるで未来を象徴しているかのようだった。
けれど、二人が会話した内容と言えば、アーヴィンとステファニーが先程の場所で二人きりで会い、気持ちだけでなく体も重ね合っていたという事実を伝えるものであり、結局はアントニアはうんざりとした様子で、トニーは彼自身婚約者がいる身であることもあり、婚約者を蔑ろにしている友人に冷笑するだけだったが。
お読みいただきありがとうございます。
1話が長くなる呪いにかかっている気がする今日この頃です。
土日のお休みを挟んで、また来週投稿します。よろしくお願いしますo(_ _)o




